鷲尾 了(横浜市泉区在住)

 

「株式会社ベストエナジー企画」 https://be-kikaku.com/index.html

創業:2017年8月

住所:町田市中町3−10−6 COMMUNE BASE マチノワ

事業:1.再生可能エネルギー利用、コージェネレーション等のシステム設計

   2.新規事業立ち上げサポート

 

◌創業まで

父親が転勤の多い職業だったので高校までは川越、盛岡、長野と転居を繰り返しました。大学進学で東京近郊での一人暮らしを経験します。中高の頃から化学や物理が好きだったので大学では機械工学の分野に進み、研究室では油圧のキャビテーションの研究を。建設分野に興味があった事もあり建築設備会社に就職しました。しかし、入社6年目、その会社の親会社が田中角栄元首相が逮捕される事件で世間を騒がすことになります。その影響で信用を失い、あらゆる官公庁から指名停止を受け売上は激減し、営業部署では外へ出ても仕事の話ができない有様でした。めちゃくちゃでしたね。悩みましたが、一生勤める会社ではないと思い、転職を決意します。30歳の時です。そんな時、目にしたのが「ソーラーエンジニア募集」というソーラー集熱器メーカーの新聞広告です。ソーラーエンジニアという言葉に惹かれました。配属されたのが東京支社にあった空調機器部の太陽熱チームです。6人のチームで営業から設計までなんでもやりました。大規模な工場や温浴施設からの仕事の依頼が途絶えず、残業をやってもやっても追いつかないほどでした。その当時は太陽熱集熱器のメーカーが全国で200社を超えるほどの大ブームでしたから。その後、数年で急速に太陽熱のブームが萎んでいきました。そして、私は吸収式冷温水機を製造している浜松の事業所に転勤となります。この事業所の将来を仲間と語り合う中で、外注に頼っている設備設計を社内で対応する必要性を強く感じるようになります。そのことを会社に働きかけ、100%出資の新子会社を立ち上げて初代の社長になります。その後、施工管理をやっていた別の子会社と合併して、設計から施工管理、機器メンテナンスまでをやるワンストップの会社ができました。私は親会社に戻ることはなく、この会社で定年を迎えました。この会社での後半は専ら海外担当となり、アブダビの砂漠に計画されていた新都市への太陽熱冷房モデルプラント、北京市の建築科学院と組んだ太陽熱の冷房システムの実証実験、新疆ウイグル自治区トルファンでの太陽熱を利用した大規模な地域熱供給システムなどスケールの大きな仕事をさせてもらいました。国内では岡山県西粟倉村の木質バイオマスを使った地域暖房システムにも取り組みました。このプロジェクトは退職直前の2016年から始まりました。

 

◌創業から

起業の理由の一つが退職後も西粟倉村のこのプロジェクトに関わりたいと思ったからです。もう一つの理由は、定年退職した人達が楽しく、生きがいを持って働ける職場を作りたいと思ったことです。元同僚で創業メンバーの久米淳文さんと昔から酒を酌み交わしてはそんなことを話していました。そして、起業のもう一つの理由はソーラーです。転職のきっかけとなった太陽熱や再生可能エネルギーに今再び注目が集まっています。30歳当時の想いが蘇ってきました。もう一度、やってみたいと。2017年6月に退職し、8月に久米さんと2人で会社を興しました。今は岡山県西粟倉村の仕事が中心ですが、古くからの知人にも声をかけてもらって仕事を広げています。また、元所属していた会社はもちろんですが、その協力会社まで含めて成長を手伝う仕事もやっていきたいですね。そして、今は夢みたいな状態ですが中国の沼や湖に自生する芦や膨大な量の農業残渣を有効利用した暖房、給湯、発電システムの可能性を調査しているところです。今後も再生可能エネルギーや環境に関わる仕事で社会に貢献していきたいと思っています。そして、退職後もまだまだ働き続けたい仲間を少しずつ迎え入れて、いい会社に育てていきたいですね。

片岡敏光(町田市南大谷在住)

 

「株式会社パットブレーン」

住所:町田市中町3−10−6 COMMUNE BASE マチノワ

創業:2007年

事業:アイデア・ネーミング指導

モットー:No1知財創造で自社力UP!

 

東北大震災で有名になった宮城県石巻市で育ちました。小中学時代は、エジソンに憧れ小さな実験室を物置に作って遊び、高校時代は授業はそっちのけで物理部室にこもりっきり、アマチア無線や放射能の測定に夢中になりました。当時、アマチュア無線は少年たちの憧れのまとでしたから。高校卒業後、商船の無線通信士を目指し、第三級無線通信士の資格まで取得しましたが、商船不況の波がキッカケで進路を変え、東北大学電気通信研究所へ就職し、音声合成研究の実験助手を2年間勤めました。

 

大学進学を諦めきれず、上京して東海大学第二工学部電気工学科通信工学専攻に入学し、昼、安立電気(現:アンリツ)に勤めながら、夜通学しました。同社では黄色公衆電話機の開発に携わりました。当時、公衆電話機からの遠距離通話がようやく可能になったばかりで更に普及させるには、偽造硬貨と区別し高精度で100円硬貨を選別できることが必須で、電電公社のお偉いさんから、「失敗したら切腹する覚悟で必ず成功させてくれ!」と叱咤激励され、意気に感じて開発に取り組みました。22歳のときでした。

 

一晩、二晩の徹夜が当たり前で、大学への通学もままならない日々が続きましたが、足掛け7年、世界一の選別精度を誇る画期的な発明をし、切腹することなく無事に黄色公衆電話機を完成させ、北は北海道から南は鹿児島まで日本中に設置させることが出来ました。

 

その後、旧青色公衆電話機が侵害事件に巻き込まれ、その対策のため特許庁に通い詰めて決定的な反証を探し出し、訴訟を取下げさせることに成功しました。この時、特許の重要性を身を持って知ったのを契機に1975年に知財部門に移りました。

 

退社までの約30年間、発明発掘から権利化、特許紛争処理までオールラウンドな知的財産業務を担当し、約2,000件超の特許権獲得を経験しました。思いで深い案件には、1982年に誕生してから今日まで3兆2千億円以上販売されているテレホンカードの0の数字付近に穴を開けるという極めてシンプルな基本発明の特許権獲得や、ソフトバンク孫正義社長が20億円も借金を返済し、今日の隆盛の基礎を築いた最安値回線選択装置の基本特許権獲得や、工作機械メーカーから巨額特許実施料を獲得し社長賞を受賞したことがあります。

 

同社を退職する5年ほど前から、TRIZ(トォリーズ:発明的問題解決理論)という問題解決技法を社内に導入し展開したことが縁となり、同社退職後に、TRIZ専門の株式会社創造開発イニシアチブの設立に取締役として参画しました。ほぼ同時に、公益財団法人東京都医学総合研究所の知的財産コーディネータ業務を担い、以来9年間、難病治療薬、尿を使った早期癌検出診断薬、異常出産解消のための胎動計数システムなどの発明発掘、特許取得、ライセンスを支援してきました。

 

その間、ソニーやソフトバンクが、創業期、倒産の危機に瀕したとき起死回生を果たし、今日の隆盛の基礎を築くことができた陰にアンリツの特許が貢献していたことを知り、1件の特許を活かすか否かで天国と地獄ほどの違いが生じることを経験した自分が今後出来ることは、TRIZを用いた特許の取れるアイデア創出法や知的財産を経営に活かす方法を起業家や経営者に教え支援することだと痛感し、2007年に、「パテントのブレーン」の意味を込めて名づけた株式会社パットブレーンを設立しました。

 

以来、日本創造学会や日本経済大学大学院付属価値創造型企業支援研究所などでの研究活動を通じて、「発明におけるモチベーション」、「イノベーションに貢献するキーパーソンの気質研究」、「コミュニケーションロボット」などの研究発表し、「No.1知財創造で自社力UP!」を旗印に活動してきました。

 

最近は若者や女性の起業家を支援することが多くなり、長年の課題である胎動計数システムの商品化のほか、電子チケット開発、健康増進プログラムの開発など経営や知財の側面から支援しています。

 

今日、IoTやAI技術の進歩で第4次産業革命到来と呼ばれ、現存する仕事の多くはロボットに置き換えられると煽られていますが、困難な問題に勇気を持って挑戦し、アイデア、知恵を出す人はいつの時代でも立派に生きていけます。

 

2020年のオリンピック、パラリンピックの競技の応援も結構ですが、ご自身の頭の中のオリンピックとして、アイデアを出す喜びを味わいながら、日本一、世界一を証明する特許権、実用新案権、意匠権、商標権、著作権の5つからなる知財権獲得の競技に参加され、ご一緒に知財の金メダルを手に入れませんか!

 

あなたのアイデア創出の応援団として、喜んであなたのアイデア力UPの応援をさせていただきます。

宇野和弘(相模原市中央区東淵野辺在住)

 

「モノヘアー町田」http://kazuhirouno.jp

開業:2015年

所在地:町田市中町3−4−3

 

◌起業まで

静岡県の韮山(伊豆の国市)で生まれました。野球、ミニ四駆、ジグソーパズル、料理を作るのが好きな子供でした。高校時代はカリスマ美容師が世間を賑わせていた時で、都会での華やかな生活に憧れて美容師を目指します。美容専門学校の学費が高額だったのを知っていましたからレストランのアルバイトで100万円ぐらいを貯めて準備しました。でも結局は父親が全額学費を負担してくれました。本当に感謝しています。高校を卒業し、中野区にあった美容専門学校へ進学します。友人も多くて目立つ存在でした。新宿の文化服装学院の学生と組んでヘアーショウを企画したこともありました。楽しく、充実していましたね。

 

そして、美容界で知らない人はいないという有名な美容院に就職します。誰もが憧れるお店で、同級生が10名ぐらい受験しましたが入社できたのは私1名でした。最初に吉祥寺の店に配属されましたが、厳しい職場でした。スタイリストになれず、二年半で退職します。人生で初めて味わった大きな挫折です。そのダメージは大きくて、4ヶ月は荒んだ生活をしていました。その後、中途入社で表参道にあった美容院で一からやり直します。誰よりも早く出社して練習、深夜も練習。死に物狂いにやりました。ここでダメなら美容師を諦めようと。念願のスタイリストには1年半でなりました。とても誇らしかったですね。この店で5年、渋谷の店で2年、表参道の店で6年と経験を積みます。お客様の望みに応えようと心を込めてやってきました。技術は当然ですが、ホスピタリテーを大切にしてきました。

 

高校生の頃からお店を持ちたいと思っていましたが、リアルに考え始めたのは30歳の時です。賃料をなるべく抑えたかったので、母の実家があり、土地勘のある町田で開業することにしました。10年前なら馴染みのお客さんのことを考えて、表参道や渋谷に出店していたかもしれません。でも、今はインターネットの時代です。インターネットでお客様を呼べるので、場所にこだわる必要がないと思いました。オープンの1年前から休みの日には原町田、森野、中町と隅々まで歩いて回り、小田急線町田駅から徒歩7分の現在の場所に決めました。活気がある商店街ではありませんが、それほど気になりませんでしたね。

 

 ◌起業から

 

2015年7月に開業します。2ヶ月はさっぱりで、予約ゼロの日も度々ありました。そんな日の前日の夜はいろいろなことを考えて眠れなかったですね。でも、3ヶ月目から一変します。以前の店のお客様も来てくれましたし、ネット経由でどんどん予約が入ります。オープン半年前から「町田美容院の知恵袋」というサイトを立ち上げていたんですがその効果が出てきたんだと思います。今ではネット予約が90%を超えています。雑誌広告やチラシに頼らずサイトの充実に集中しています。ネットは開業を目指して3年前から猛勉強していました。ユーザーにとって役に立つ情報が載っているサイトづくりを心がけています。「町田美容院の知恵袋」は白髪染め、縮毛矯正、カラー、パーマなどユーザーの悩みや疑問に徹底して答えるサイトです。結果として、ユーザーに支持され、Googleの検索で上位になり、サイトからの予約という好循環を産んでいます。

 

1年半は私1人で切り盛りしてきましたが、昨年の11月からスタイリスト1人と今年4月からアシスタント1人が加わりました。直近の目標はスタイリストを1名増やして、四人体制にすること。次の目標は自転車で5分以内の場所に新たに出店することです。シャンプーなどのヘアケア商品も作ってみたいですね。

東井満雄(座間市ひばりが丘在住)

 

「有限会社あづまい工務店」

創 業:1977年

所在地:座間市ひばりが丘2丁目53番6号

 

岩手県九戸村の葉タバコやケチャップ用トマトを生産する農家の6人兄弟の5番目に生まれました。小さな頃から芝居や歌うことが好きで、地元では目立っていましたね。中学を卒業して二戸にあった職業訓練校で1年間木工を勉強しました。建具や家具の勉強です。そして、東京にあった東京建具商業協同組合に就職します。14時間も汽車に揺られて上野駅に着いたのを覚えています。月給は7,951円で二人部屋の寮生活でした。でも、建具工場での作業が性に合わず、屋外での仕事がしたくて1年半で転職します。上京していた6歳上の姉の紹介で、向島にあった工務店に入りました。親方の自宅の二階に住み込み、月給は1万円でした。

 

ここから大工修行が始まります。仕事は柳橋にたくさんあった料亭の修繕が多くて、面白かったですね。ここには10年位いました。最初は材木の刻み、3年目で墨付けを任されます。墨付けまで5年かかると言われていましたから、覚えは早かったと思います。腕も上がり、8年目位からは独自に仕事を請け負うことも多くなりました。また、左官、塗装、水道、瓦、電気といった職人さん達とのネットワークも広がっていきました。大工の棟梁は職人の手配とスケジュール調整も大事な仕事です。家が完成するまでに15人ぐらいの職人が関わりますから、優秀な職人とのネットワークを持っていなければ仕事にならないんです。

 

座間に住んでいた都内の高校の先生の自宅を修繕したことが縁で座間市内に住まい兼作業場を設けます。親方の元を離れ、座間で「あづまい工務店」を立ち上げます。27歳の時です。独立当初は何でもやりました。都内の店舗や飲食店の改装もずいぶんやりましたし、工務店から大工仕事を請け負う手間請けもやりました。ある時、職人仲間の紹介で1,000戸を超える大規模なマンションの一室の修繕を頼まれます。その工事が評判になり、マンションの住民から次から次へと工事を頼まれるようになります。これで仕事には困らなくなりましたね。今までにそのマンションだけで130戸以上もやっています。こんな風に工事の依頼は知人やお客様から広がっていきました。

 

心がけていることは、頼まれた仕事だけをやるのではなくて、お客さんにいろいろな提案をすること。茅ヶ崎にあった古民家の解体を依頼された時は、全面改修して、店鋪にすることを提案しました。今は焼き鳥屋と美容院に使われて繁盛しています。また、オーダーメイドの家具も提案します。こうしたところが普通の工務店と違うところで、我が社の競争力になっています。知恵とアイデアのある工務店なんです。

 

今までいろいろと変わった現場を経験してきました。例えば、8畳しかない超狭小住宅を改修して焼き鳥店にしたこともありました。月島にあったメゾネットタイプの小さな長屋を店舗に改修したこともあります。面白そうな現場が好きなんで、普通の工務店が避けるような案件が回ってくるんですよ。また、数年前から無垢の木材を使った工事をよくやるようになりました。古民家の改修、小さな音楽ホール、マチノワと。マチノワは地元の山で間伐された木を自然乾燥させ、それを現場で加工して壁、ブース、テーブルを作りました。面白かったですね。今後も地元で産出される木材を使った内装や家具作りをやっていきたいですね。

立石正博(横浜市青葉区在住)

 

「株式会社CORNERSTONE」

創業:2015年

住所:町田市中町3−10−6 COMMUNE BASE マチノワ

事業:新規事業立ち上げ

 

横浜市内の高校を卒業し、大学と大学院では化学を専攻しました。卒業後、鉄鋼メーカーに入社し、富山にあった半導体の研究所に配属されました。その当時、次世代の産業のコメと言われた半導体に日本中の企業、特に鉄鋼メーカーが挙って参入した時代でしたから、その分野に配属となった次第です。

 

パートナー企業だった台湾企業の半導体工場の立ち上げ支援や神奈川の試作ライン立ち上げも終わり、5年が過ぎたころに、もっと違う世界を見てみたいと思い、米国に本社がある半導体の製造過程で使われる検査装置メーカーの日本法人に転職しました。日本の半導体工場に長期滞在して、検査装置から得られるデータを基に生産工程の改善を提案するといった仕事を行いました。その頃、半導体製造工程では経験則から大量データ統計解析へと時代が移るころで、検査装置売り上げは急増します。数年すると韓国や米国の半導体メーカーが日本企業の技術を真似ながら、資本の力で事業展開を始めたため、日本企業が求める仕様変更に米国本社がなかなか応じてくれません。日本企業と米国本社との板挟みになり、その頃、急速に英語のスキルが上がりましたね。

 

そんなこともあり、半導体の歩留まりを助言するコンサルタント企業に転職し、渡米します。この会社は創業間もない小さなベンチャー企業。日本人は私1人で周りのスタッフは米国の著名な大学のマスターやドクター達で、とても刺激的な職場でした。ここでは、日本法人の設立も担当しました。5年勤務しましたが、日本と米国を月2回往復する生活で、時差から体調がかなり不安定になったため、日本に戻ることにしました。

 

日本に戻りしばらくすると、米国やイスラエルのベンチャー企業と日本の半導体メーカーをマッチングさせる会社を創りたいという方と出会い、米国コンサルティング会社を退職。パートナー六人で創業します。日本の半導体メーカーの期待を集めた事業でしたが、米国のビジネス環境が急変したことでビジネスが成立することが難しくなり私はこの事業から退きました。その後、ドイツや米国の企業の日本法人代表として、国内事業の再構築や日本市場の開拓に取り組みました。

 

ちょっと話が逸れますが、日本の大企業と海外の企業の一番の違いは意思決定の早さと感じています。日本は優秀な方が多いです。ただ、決められない方もとても多いと思います。私が勤めた会社の米国経営者は部下から送られてくるメールを毎日500件ほど見ていました。情報を直で摂るんです。『決断に不安があるのは情報が不足しているからであり、十分な情報があれば自然と結論が出る』と言っていました。また、『(今の世の中は同時に動いているため)与えられる期間は同じで、期間内の経験数の差が、優劣の差になる』と、競合の2倍ではなく10倍の経験をするべく資源を投入していました。そのような考え方はシリコンバレーだからかもしれませんが、企業がグローバル競争の中後れを取る理由の一つであると感じています。

 

2015年に日本企業の海外進出をサポートする株式会社CONNERSTONEを創業しました。長年、海外で仕事をしてきたことや外資の日本法人の代表を経験した強みを生かし、日本企業の海外ビジネスを成功させたいと考えています。今は太陽光発電プラントの工事会社や工業用X線検査装置の会社のアジア進出を支援しています。

 

今後は、介護人材の不足を解決するため、アジアの人材を日本に呼び寄せる事業を通して、日本企業を支援したいと考えています。また、アジアで儲かる農業の仕組みづくりにも挑戦します。小作で貧しい生活を営むアジアの多くの人達が自立できるような新しい農業の仕組みを日本企業と組んで作っていきたいと考えています。

高松幸子(相模原市緑区在住)

 

「くらげ雑貨店」http://kuragezakka.com

開業:2012年

 

◌起業まで

ちいさな頃から学校生活での集団行動が苦手で、「どうやったら学校を休めるか」を毎日考えているような子どもでした。看護婦を目指して看護科に進んだり、インテリア学科のある専門学校にも通いましたがどれもものにはならず。そんな中、「なんとなく楽しそう」と始めた地元の商業施設での接客のアルバイトがとても楽しくて、惜しくもお店が閉店するまでの3年間、仕事を続けることができたんです。この経験から、これまでいろんなことを途中で投げ出していた自分に少し自信を持つことができました。

 

その後、「雑貨デザインアシスタント募集」の貼紙に食いついて、ブライダル雑貨を制作する会社に入社しました。担当は主に結婚披露宴で使うウェルカムボードの企画・デザインでした。この仕事を通してデザインや材料の仕入れなどを学び、「いつか自分のお店を持てたらいいな」とぼんやり考え始めます。

 

次に1年間、さがみはら産業創造センターの地域活性化プロジェクト室で地域紹介の冊子制作などの広報担当として働きました。ここに集まった若手デザイナーや経験豊富なスタッフから多くのことを学びました。また、たくさんの起業家に接し、起業を身近に感じるようにもなりました。それが大きな転換をするきっかけとなり、これまでぼんやりとだった自分の夢を実現させる決心をして起業に向けた活動を始めたんです。

 

◌起業から

まずはたくさんの方にアドバイスをいただきながら事業計画書を作成、それを相模原市が実施している「チャレンジショップ認定制度」に応募しました。緊張のあまり涙目の状態で声を震わせながら10名以上の審査員の前で臨んだ2次審査のプレゼンを経て見事、入選。このことが起業への大きな自信につながりましたね。また、致命的に苦手な数字のことも起業する上では避けては通れないので、簿記検定講座に通って必死に勉強しました。

 

夢だったハンドメイド作品の材料販売やワークショップをする小さなお店を開業することを目指して、次に行ったのは実際に「モノ作りカフェ」を経営されている「みちくさアートラボ」オーナー椎名さんの下で働きながら修行すること。ワークショップの運営やお店の経営について惜しみなく教えてくださる椎名さんのおかげで、店舗運営についてたくさんのことを学ばせていただきました。

 

その経験を踏まえて、当面は店舗を持たずに出張形式でハンドメイドワークショップを開催することに。屋号を「くらげ雑貨店」として2012年秋に開業しました。この「お店を持たない」という選択は、「お店を持つ覚悟や度胸が自分にはないのか」と、とても悩みましたが、結果的にはこの判断が自分の性格にはあっていたのだと思います。家賃や光熱費などの固定費を抑えることで、焦らずに自分のペースで事業を少しずつ広げていくことができています。ワークショップの開催に当たっては、相模原市東林間のコミュニティスペース「はこの和」さんや、相模大野のカフェ「naruco cafe」さんを会場としてお借りして、回を重ねるごとに少しづつお客様が増えていきました。開業3年目あたりで企業様からのお問い合わせ・ご依頼がくるようになり、今では様々な商業施設でお客様にハンドメイドを楽しんでいただくワークショップを年間20回以上開催しています。2016年には日本ヴォーグ社より「本物お花のUVレジンアクセサリー」という、ハンドメイドアクセサリーの作り方をご紹介した書籍も出版させていただくことができました。

 

◌これから

最近ではハンドメイド講師の経験に基づくワークショップ運営のアドバイスや、企業様の新商品の開発支援や販促支援など、くらげ雑貨店がこれまで培ってきた知識や経験を活かせるお仕事のご依頼が増えてきて、ハンドメイドが貢献できる可能性の大きさを感じてわくわくしています。

 

そして将来は必ずお店を持ち、そこに集まるみんなの人生が豊かになるようなこと、ハンドメイドだけにとらわれずに楽しいことは何でも!ご提供していきたいと考えています。

安藤英明(町田市南大谷在住)

 

「PQB japan株式会社」

創業:2017年6月

住所:町田市中町3−10−6 COMMUNE BASE マチノワ

事業:1.金属非破壊検査装置の開発・販売

   2.リスク・マネージメントの教育・出版

   3.目視検査支援システムの開発・販売

 

雑誌「子供の科学」の愛読者で小学5年の頃からハンダゴテを握って一石トランジスタラジオやゲルマニウムラジオを作っていました。聞くだけでは飽き足らず、電波を出すためにアマチュア無線を始めます。高校三年の春には第一級アマチュア無線技術士の試験に合格します。その高校では初だったそうです。

大学では通信工学科に進み、大学卒業後は父親が経営するトラック運送の会社に入社し、2年間トラック運転手をしました。得意先だったソニーの部品を作っていた工場が八王子にありました。トラックでの運搬の合間を見つけてはその工場を観察し、改善点をメモするようになりました。そのメモをもとに100枚位の改善の提案書を社長に手渡すと、提案にびっくりした社長から入社を勧められ、その会社に5年間勤めます。

その後、立川にあった半導体製造装置に使われる高周波電源やアンプを作っていた会社に入ります。仕事は面白かったんですが外資系企業で私が在籍していた2年間で親会社が3回も変わり、その都度、経営方針がごろりと変わるんです。こんな会社に長くはいられないと思い退職します。

そして、ビール製造会社に入社し、ビール瓶などの検査装置を製造する子会社に配属されました。そこでいろいろな仕事を経験しました。電子設計、製造管理、検査用カメラの開発・製造、自動機器の輸入。その後、検査装置を外販する新規開拓の営業担当となります。そこではセラミック、化粧道具、自動車部品などいろいろな分野を開拓してきました。営業に18年在籍しました。

その後、技術畑に戻ります。ビール瓶のひび割れや牛乳瓶の表面の微細な汚れを検査する装置の開発などに取り組み、数多くの特許も出願しました。15年以上誰も解決できなかった問題をいくつも解決しました。

でも、少しずつ大きな会社の限界を感じるようになります。お客様の要望を聞いて、困っていることを解決したいと思うんですが、なかなか実現しません。アイデアはどんどん出てくるんですが、会社は大きな売上が見込めない製品の開発には投資しません。また、スタッフは皆優秀なんですが、営業と技術が一丸となって、みんなで良いものを作ろうという雰囲気も少なかったですね。だから、60歳になったら会社に残らず、独立して、今まで温めていたアイデアや事業を実現したいと思いました。

今、考えている会社の事業は3つあります。一つが非破壊検査装置の開発・販売。2つ目がリスク・マネージメントの教育普及事業、3つ目が目視検査の評価と訓練のための支援システムの開発。

16歳から始めたアマチュア無線のコールサインがJF1PQBでした。このコールサインの意味を自らPerfect Quality Businessと読んだことから命名しました。そしてfrom Japanは日本だけではなく世界と関わってゆくこと。やがて社業の利益を世界の子どもたちのために還元したい。

 

PQB japanに込められたミッション…人生は一度きりだから。

小橋隆司(相模原市中央区中央在住)

 

「株式会社トライアンド」http://triand.jp

創業:2007年

所在地:相模原市緑区西橋本5-4−30 SIC-2

東京都渋谷区富ヶ谷2丁目20-1 Lulud.T.bldg 2F

 

◌起業まで

多摩美術大学の2年生の時から、眼鏡店のチラシやポスター、毎日新聞やさがみはら産業創造センターのホームページ制作の仕事をしてきました。大学3年の時、ある大手メーカーへの推薦を受けようと大学の就職課に行ったら「推薦を受けたら必ず入社すること」と言われました。その時、「自分は本当にそれを望んでいるのか」と自問します。すでに仕事をいただいている会社や一緒に仕事をしている大学の仲間との縁が無くなることが寂しいし、いろいろな人達と関わりながら自由に楽しく仕事をやってきた環境を失いたくないと思いました。だから、就職しないで、仲間と一緒に会社を作ろうと決めます。卒業と同時に古い民家を借り受け、住まいも兼ねた事務所で起業しました。

 

◌起業から

会社の仕事は大きく分けて3つになります。1つ目がロゴマーク、会社案内、パンフレットといったグラフィックの制作です。事務所の近くにある東京医療学院大学はゴロマークからパンフレットまで一括して制作しました。二つ目がホームページ、スマホのアプリ、ウエブサービスなどのユーザーインターフェイスです。上海万博の日本産業館のホームページ制作もやりましたし、360°すべてを撮影するカメラ「RICOH

THETA」は製品の立ち上げ期から関わっています。三つ目がデザインを通じたコンサルタントです。カシオ計算機デザインセンターの未来のコミュニケーションのデザイン開発支援や愛川町半原の観光資源開発などもやりました。

 

◌これから

30代になって、地域や社会への貢献を強く意識するようになりました。世の中をよくする活動をしようと思っています。デザイナーが担う主な役割は時代によって変わってきています。冷蔵庫、洗濯機など工業製品をデザインする時代、東京オリンピックなどのイベントをPRするためのポスターデザインの時代、パソコン、スマホ、カーナビなどの画面をデザインする情報デザインの時代。そして、今、社会や地域の課題をデザインのアプローチで解決しようとするソーシャルデザインの時代が来ているように思うんです。理系でも文系でもないデザイナーの持つ能力や特性が社会や地域の問題を解決する時にとても役立つと思います。

 

そんなこともあって、愛川町や相模原市中央区で活動しています。「中央区体験する文化祭」は地元で活躍する人達に講師になってもらい伝統芸能、絵葉書づくり、コマなどを小学生が体験をするものです。地元を知ってもらい、愛着を感じてもらう活動で、この事業のリーダーをやりました。

 

もう一つ、スタッフの働き方や能力向上に取り組んでいます。結婚や育児で仕事を離れた女性デザイナーがいつまでも働けるよう、自宅勤務や短時間勤務などの制度を作りました。また、スタッフの大学院への進学や海外留学の制度も作りました。社員旅行では台湾やタイで現地のデザイナーとの交流もしてきました。スタッフが外の世界をもっと知ることで違った視点を持ち、ユニークで質の高い仕事ができる集団にしていきたいですね。

さるびあ亭かーこ/紙芝居師(町田市中町在住)

 

開業:2012年

所在地:町田市中町1−4−2 町田新産業創造センター内

 

地元で読み聞かせのボランティアを長年やっていた母親の影響もあり、小さな頃から絵本や紙芝居に囲まれて育ちました。大学卒業後は横浜にあったIT企業でプログラマーとして2年間会社勤めをしています。結婚を機に退職して専業主婦になりますが社会との接点が欲しくて、町田の金森図書館で読み聞かせや紙芝居のボランティアを始めます。私の読み聞かせと紙芝居に子供たちは夢中になってくれました。才能があるのかなと思いましたね。

 

そんな時、伝説の紙芝居師の存在と「プロ紙芝居師養成オーディション」の開催をテレビで知りました。大阪と東京で開催されたオーディションには合計で300人近くの人が集まり、町田文学館だけでも100人を超えていたと思います。私は「人生を大きく変えるチャンス」と意気込みます。町田文学館での選考は紙芝居の定番「黄金バット」の実演でした。そして、希望者30数名が町田の簗田寺で三日間合宿しながら紙芝居の自作と実演で鍛えられます。丁度、長男が重い病で病床に伏していた頃です。そんなこともネタにしながら懸命にやりました。苦しいこと、悲しいこと、うれしいこと、すべての思いをぶつけましたね。

 

師匠に認められてデビューが決まります。師事して3年間、大阪や京都を中心に全国を渡り歩きました。10台の紙芝居を並べ、14時間連続でやった街頭紙芝居は京都駅前を騒然とさせ、紙芝居の持つ力を目の当たりにして私も興奮しました。

 

その後、師匠の元を離れ、地元町田で一本立ちします。最初の仕事は千葉松戸のレストランで開かれた企業の食事会でした。オーディションで知り合った仲間が紹介してくれました。ありがたかったですね。地元町田でも最初はなかなか相手にしてくれません。飛び込んで頼み込み、町田の金井フェスティバルに出店することになります。朝から日が暮れるまで、休憩も取らず街頭紙芝居をやり続けました。駄菓子を売るのも忘れるぐらいに。地元に受け入れてもらいたいと必死でしたね。そんな気持ちも伝わったのでしょう、大勢の子供たちが集まり、私の街頭紙芝居は黒山の人だかり。翌日、参加を許してくれた商店街の会長さんにお礼に出向くと、来年も是非やってほしいと。涙が止まらなかったですね。これで町田でやっていけると思った瞬間です。

 

現在、紙芝居を柱にして3つの仕事をしています。一つ目がお祭りやイベント会場に出向いてのレトロ自転車紙芝居口演。東京タワー、伊勢神宮おかげ横丁など今までに1,000か所以上で口演してきました。二つ目がお寺、幼稚園、大学での紙芝居を使った講演会。年間50回ぐらいやっています。母校の桜美林大学、相模女子大学、ロータリークラブでもやりました。三つ目が企業や団体向けのオリジナル紙芝居の制作と口演です。保険会社の設立記念、地下鉄博物館開館記念などを手がけてきました。

 

今、沼津仲見世商店街で毎年夏に開催される「ニッポン全国街頭紙芝居大会」に向けて準備中です。第1回で優勝しましたが、毎年、全国の精鋭が集まる大会ですから気合が入ります。ダントツの受賞を目指しています。

高あみ/彫刻家(町田市在住)

 

 私は三人姉妹の末っ子として新潟で生まれました。小さな頃から一人で遊ぶのが好きで、食事もとらず黙々と絵に集中する、そんな子供だったそうです。小学生の頃には画家になりたいと思っていました。母親の影響が大きかったですね。母親も絵が好きで、よく一緒に絵を描いて遊んでくれました。一方で運動も大好きで、中学ではバスケット部、高校ではボート部に入部し、フォアの選手としてインターハイにも出場しました。ボートの練習が忙しく、入試の準備を始めたのが3年生の夏。ボートの練習が終わった夜、市内にあった個人の小さなアトリエで勉強し、女子美術大学芸術学部立体アート学科に進学します。

 

立体アート学科は粘土・紙・木・石・金属を造形する学科ですが、2年生の時に素材が安く、長く続けられると思い粘土を選びます。入学当時、同級生は東京の予備校で鍛えられていてデッサン力は数段上。授業に必死でついていく毎日でした。ボートで鍛えた体力で制作に集中し、3年生の時には等身大の人物彫刻を一通り作れるようになります。卒業制作賞ももらいました。そして、修士過程に進みます。

 

人物を造形するオーソドックスな彫刻をずっと作っていましたが、その頃現代アートやインスタレーションという表現に出会います。その影響を受けて、今までと違った作品を制作するようになります。修士の卒業制作は新潟の母親から送られてきた仕送りの段ボール箱を石膏でたくさん作りました。娘への愛を人物ではなく、アパートに届けられた段ボールの箱で表現しました。その作品を展示したのが、当時表参道にあった貸しギャラリーです。その時に、今お世話になっているギャラリーのディレクターと出会い、現在はユカリアートというマネジメントギャラリーに、作家活動を全面的にサポートしてもらっています。

 

修了後の2008年からグループ展や屋外アート展、アートフェア等に参加。この頃には今の作風に近い人物彫刻に落ち着きます。その後27歳で結婚するんですが、最初の子供を流産します。それは、これまでに感じたことのない「絶望」でした。麻酔から目がさめて、朦朧とした意識の中で病室の壁を見たんです。その時とっても絶望的な気分だった私は、「気分や弱っているときは、やさしいものや明るいものだけを見ていたい」「誰かのそばに寄り添って、何にも言わないけれど安心する、そんなものを作りたい」と思ったんです。今まで自分は何をしてきたんだろうって。しばらくして、これまで作ってきた作品をほとんど処分したんです。

 

その後は二人の子どもに恵まれました。育児は本当に大変で、寝不足や疲労といった物理的条件はもちろんですが、子どもの存在以上にあたたかくてやさしいものなど作れなくて、精神的にも制作に向き合えない時期が2年くらいあったと思います。作れないかわりに、1歳からの造形教室「小さな美術室」というものを始めました。作家活動と並行して幼児児童の造形教室でずっと働いていたので知識と経験がありました。そこに自分やママ友の子育て経験から得た悩みや理想を盛り込んだ教室です。

 

今は再び制作意欲がわいていて、育児と家事の合間の時間を見つけては制作の時間に当てています。家族が出来て生活は大きく変わり、自分の気持ちだけでは前進できないこともたくさん体験しました。だから制作するときも、背伸びせず、その時々の自分自身を正直に表現することで、同じ立場の人や誰かの役に立てるようになれたらいいな、という気持ちでいます。

 

小学生の時、夢見たことが現実になっています。これからも作品を作り続けていきます。彫刻家高あみをもっと知ってもらいたいですね。

小崎直利(町田市小山町在住)

 

「こざ企画」http://kozakikaku.com

開業:2007年

所在地:相模原市緑区西橋本5−4−30 SIC-2

 

◌起業まで、起業から

多摩美術大学の3年の時、大手電機メーカーの情報デザインの採用試験を受けました。その企業の二次試験はMP3プレイヤーのインターフェイスの画面デザインを制作するというもので、自分としては製品の用途や特性を考えた良い提案をしたつもりでした。少し自信もありましたが、落選でした。試験会場で何気なく様子を見に来たデザイン部の人から作品の要望が伝えられていて、その意図に沿った提案をした人が内定したことを後で知りました。担当者の意図から全く離れた作品を作った私は落選したのです。「会社に入ったら毎日満員電車に揺られ、上司達の顔色を伺いながら働くんだ」と想像し、やけになっていました。そんな人生は自分には耐えられないと思いました。

 

そして、大学4年生の時、気の合う大学の仲間とデザイン集団を作り、仕事を始めました。最初に制作したのがさがみはら産業創造センターのイベントA4両面のフライヤーで、ケント紙で模型を作ったりと、楽しくやりました。ギャラをもらった最初の仕事です。そんな活動を経て、卒業と同時にこざ企画を2007年4月に開業しました。

 

開業してからは企業のパンフレットやカタログの制作、専門学校の講師、自主制作のグッズ販売、情報検定の作問委員、デザインソフトのデモンストレーター、地域おこしプロジェクトのデザイン担当と色々なことにチャレンジしてきました。特に、地域おこしプロジェクトではデザインの仕事を組織でやる醍醐味や面白さを教えてもらいました。それが会社を大きくしたいと考える動機にもなっています。開業4年目ぐらいから中小企業のロゴマーク、会社案内、ホームページ等を一括して受注することが多くなりました。建築リフォームの有限会社ジューン企画、工具販売の大器機工株式会社、秦野病院、高級豚肉の桃茶豚など数多くのデザインを手がけました。デザインの仕事は、知られていないこと、気付かれていないこと、分かられてないことを可視化していく作業です。経営者や従業員では気づかなかった会社が持つ力や魅力を発見することもあります。また、デザインを一緒に考えていくことで、従業員のモチベーションやロイヤリティーが高まったりするケースも目にしてきました。デザインの持つ力を実感しますね。

 

◌これから

まず、中小企業や地域活性のブランディングの仕事に力を注ぎたいですね。今、愛川町の観光振興のブランディングの仕事をしています。大学生や若手クリエイターの力も借りながら地元の名所発見やコンセプトづくりを進めています。学生たちと巡った場所をポスターにしたところ、「ここが愛川町なのか!?」と驚かれました。とても魅力的な場所なんですが、地元の人にとっては当たり前の風景なんです。こうした埋もれた価値を探りあて、光を当てていくことが仕事ではないかと思います。

 

二つ目は、こざ企画を組織化させることです。昨年からスタッフを2名雇用しチームでデザインワークを行っています。スキル面も高めていってもらいたいですが、それ以上にメンバーでこざ企画が何を目指しているのか、各自がやってみたいことを意見交換し、組織としてアウトプットの質を高めることも研究中です。これまで経験してきたことや力を注ぎたかったことを突き詰める作業をしたいです。

 

三つ目は、「橋本デザイン会議」の活動です。都心でもなく田舎でもない郊外のベッドタウンにこそデザインの力が必要だと思っています。デザイン活用の需要を上げるために学生や若手デザイナーが地元で活躍する場を作り、その事例や可能性を発信していきたいです。

松崎浩平(町田市本町田在住)

 

MACHIDA Nub

開業:2017年

所在地:町田市中町3−4−3

Instagram:https://www.instagram.com/nub_texmex

 

◌起業まで

中学時代、「料理の鉄人」で活躍する同郷のフレンチシェフの坂井さんに憧れて、料理の道を目指すことを決めました。そして、調理科があった地元鹿児島の高校に進学しました。

卒業後、大阪の料理店を経て、所持金8万円を握りしめてカナダに渡り、バンクーバーの日本料理店で働きました。1年間働いたこの店で、プロの料理人としての基礎を学びました。

 

一度、日本に帰ってから、今度はオーストラリアのメルボルンにある日本料理「花膳」で働くことに。ここで、生涯の師となる原田さんと出会います。若い時、台湾に渡って中華料理を身につけ、それからフレンチ、日本料理へと進んだ異色の人です。この人からはいろいろなことを教えてもらいました。月々の給与のほとんどをつぎ込んで、オーストラリア中の名店を食べ尽くしたのもこの人の助言があったからです。この店では創作料理にも挑戦し、自作の「カッペリーニの和風海鮮」や「海老のマンゴーサルサソース和え」は大ヒットしました。

 

そんなことが評判になってメルボルンにあった日本料理店にスカウトされます。この店ではヘッドシェフとして、たくさんの若い料理人を育ててきました。人を教育することの難しさも知りましたし、若いスタッフがどんどん成長していく姿を見ると無性に嬉しかったですね。この店で7年、オーストラリアには10年間です。

 

妻の出産を契機に帰国し、代官山にオープンするメキシコ・テキサス料理の「ブルージャムカフェ」にヘッドシェフとして働くことになります。この店はロサンゼルスに本店があり、オープン前に現地研修に行く機会がありました。これがすごく刺激的な体験でした。向こうのスタッフは全員がすごく陽気で、仕事をエンジョイしている。キッチンもホールも歌い踊るといった具合。「踊るキッチン」「歌うホール」ですね。オーダーストップする午後4時にはビールで乾杯。日本に帰りたくないと思ったぐらいです。仕事は楽しむこと。自分の仕事観を変える体験でした。

 

◌起業から

1年間勤めた代官山店を退職し、町田市中町にメキシコ・テキサス料理の「Nub」を2017年5月に開業しました。家族と過ごす時間を大切にしたいと考えて、住まいのある町田で開業することにしました。町田の人が食べたことのないメキシコ・テキサス料理をやってみようと思いました。ロサンゼルスのブルージャムカフェがあんまりにも楽しかったので、その影響もあります。

今、楽しいです。自分がオーナーシェフ。失敗も成功も自分次第。いろいろなことに挑戦できます。私一人の小さなお店ですから、作った料理をお客様が目の前で食べる。お客様の反応が直に伝わってきます。

自宅からバイクで6分。家族との時間もたっぷり取れて、妻も4才の娘も大喜びです。最高です。

 

◌私の未来

当面は売り上げを増やすため、ケータリングを充実させること。中町が賑やかになるようにイベントも企画しています。将来は町田にもう一つ店舗を持ちたいですね。

 

長崎 克央(相模原市東淵野辺在住)

 

「有限会社創夢設計」

経営理念:顧客の夢を深く理解し、それを共に創造する

スローガン:謙虚、愛情、挑戦

創業:1991年

所在地:相模原市中央区矢部2−7−36

 

◌起業まで、起業から

明治大学の建築学科に在学していた頃から建築家として独立しようと考えていました。その準備の意味もあり、20歳代は「振幅の大きい経験」を積むことを意識しました。卒業後は父親の建築事務所で2年、バングラデシュで青年海外協力隊を3年、東京大学駒場キャンパスの教養学部で助手を2年、槇総合計画事務所を3年と経験を積み、その間にはアジア、アフリカ、ヨーロッパを長期にわたって旅をしました。インドとバングラデシュで見たコルビジェ・ルイスカーンの建築に近代建築の可能性を再発見すると共に、各地の民家から建築の原点を感じました。

 

父親の引退を機に相模原に戻り、創夢設計を起業します。32歳の時です。社会的に意義がある規模と内容の仕事がしたくて、一人ではなくそれまでに縁のあった三人でスタートさせました。意気揚々と起業しましたが、現実は厳しく、悶々とした時期が続きます。父親の代のお客さんからの注文で何とか凌いでいた時期が数年あったでしょうか。

契機となった一つは相模原商工会議所の青年工業経営研究会に入会したこと。ここで経営の機微を学び、地元企業との人脈もできました。そして、複数の公共事業とさがみはら産業創造センター(SIC)の建築コンペで選ばれたこと。インキュベーションセンターであるSICのコンペは、地元の産業を知り、様々な経験をして来た自分にとっては絶好のチャンス。「コンペに落ちたら建築を辞める」と背水の陣で臨みましたね。このコンペ当選で相模原、町田を中心に工場、商業施設、教育施設、個人住宅と幅広い分野の建築を手がけることになっていきます。

 

◌今、力を入れている仕事

地元の木材を建築などで利活用することです。これまでは、地元の木材に縁はなく、一般的に流通している国産材や外国産の合板や集成材を使っていました。

林業家の佐藤好延さん(サトウ草木)と出会ったことで、地元の木材を少しずつ使うようになりました。3年程前に相模原市篠原に古民家を買い求め、地元産の木材を使いながら、リフォームをなるべく自分でやっています。自然乾燥させた木材のクセや建築に使う勘所が判ってきましたから、より積極的に使うようになりました。相模原市の西門にある「にしもぐらホール」や生活介護事業所「銀河」では地元材をふんだんに使いました。

地元の木材を身近な場所で消費する。今後はそんなサイクルを作りだすことに力を注いでいきたですね。豊かな森林を持つ相模原に生まれ育った建築家の責務だと思っています。

 

◌私の未来

どんな仕事にも気力と体力が必要です。還暦を過ぎ、体力の衰えを感じ始めていますが、木工は頭を使いつつ体力を適度に維持させながら、幾つまでも続けていける作業です。木工作業をしながら死んでいきたいですね。ピンピンコロリと。

白岩 圭(町田市鶴川在住)

 

「株式会社ROX」http://www.roxjpn.com

企業理念:誰もが得意な分野で活躍できる、隔たりのない社会の実現に貢献する

事業内容:障害者の方が携わった商品、手仕事による雑貨・食品の企画販売

創業:2013年

所在地:町田市中町1−4−2 町田新産業創造センター内

 

◌起業した理由

10年勤めた百貨店が閉店し、職を失いました。町田市内にある卸売業・メーカーに転職し、商品企画や買い付けの担当として、思いっきり働きました。やり甲斐のある、とても楽しい職場でした。

でも、40歳を過ぎた頃から、会社に頼らず自分の力で勝負したいと考えるようになりました。当時の私は自分の力を過信していたところがあったと思います。そうは言っても、それが起業の原動力になった訳ですが。

42歳の時、オープン間もない町田新産業創造センターの一角で株式会社ROXを立ち上げました。

 

◌今、力を入れている仕事

心身にハンデキャップを持った人達が作った雑貨や衣料品を販売する「コスミックマーケット」。2017年5月に全国15か所の障害者事業所の作品を東急ハンズ新宿店で販売し、大きな反響を呼びました。売上も予想を大きく上回り、この事業の持つ可能性を実感しました。「自分の作品が東急ハンズで販売される。とても嬉しい。」という声もたくさん寄せられました。

 

この事業のきっかけは、生協の職員から心身にハンデキャップを持った人達の作品展のパンフレットを手渡されたこと。また、作品の発表や販売の機会が非常に限られていると教えてもらいました。そして、町田市金井にある「クラフト工房・LaMano」を訪問し、織物、草木染、アートの作品を見せてもらいました。頭に雷が落ちたような衝撃を受けました。独創的で精巧に作られた作品はどれも素晴らしかったし、黙々と手仕事に打ち込む姿にも感動しました。福岡の「工房まる」の陶芸、木工、アートも素晴らしかったですね。

 

こんな作品を世に広めたいと思いました。こうした作品はバザーで販売されるなど販路が限られ、正当な評価を受けていません。価値に見合った価格で販売することができれば作り手の収入も増えて、自立につながると思ったんです。作品が正当な価格で購入され、優れた作品が人々の生活を豊かにし、その結果、作り手の自立が進む。そんな好循環を作るお手伝いができることを誇りに思っています。

 

◌私の未来

「コスミックマーケット」をもっともっと大きな事業に育てていきたい。提携する事業所も全国に広げていきたいし、将来はアジアにも進出したいですね。

http://cosmic-market.com

若命彩子, 山本満STAFF, MANAGER

 

若命彩子

ユーザーさんや地域の皆さんへ、笑顔での対応を心がけます。マチノワから繋がるご縁が素敵なものになるよう、お手伝いできれば幸いです。

 

山本満

快適で美しい仕事空間を作り、ユーザーを応援するイベントを企画し、情報やネットワークを提供します。

※相模原市橋本にあるさがみはら産業創造センター(SIC)の設立メンバーの一人

Abataka/DESIGNER

mail:shu@cb-machinowa.com

マチノワのウェブサイトの管理など広報全般を担当しています。

プロダクト、ウェブ、フォトグラフィックなどを扱います。

マチノワでは利用者などからデザインの相談を受けながら、自身の制作活動や研究を行っています。

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