松岡克守(町田市山崎在住)

松岡克守さんは1952年神戸市生まれ。地元の小学校、中学校を卒業し県立兵庫高校に進学。中学校では剣道部、高校ではラグビー部。剣道は伸び悩んだ。ラグビーも体格、運動能力とも秀でたものは無かったが、2年からレギュラーでフッカー、3年ではナンバー8として活躍し、県大会でベスト4に進んでいる。高校は県内屈指の進学校、難関を突破したことで燃え尽きた感があったようだ。そんなこともあり高校時代は勉学というよりラグビーと文学に夢中になる。好きだった作家は井上靖、得意教科は現国と古典。

上京し専修大学文学部国文学科に進学する。ゼミは源氏物語、谷崎潤一郎や太宰治を愛する文学青年で大学2年の頃から物書きで食っていきたいと考えるようになる。大手の新聞社や出版社を目指すも、ことごとく失敗しこの業界の厳しさを知る。唯一合格した化学工業日報に記者として入社する。専門紙としては抜群に大きく「専門誌の朝日新聞」といわれたていたところで待遇も良かったようだ。東京に残りたかったし、なにより記者になることを切望していた松岡さんにとって入社の喜びはひとしおだったようだ。

最初の担当分野は無機化学。信越化学工業や旭硝子、東ソーなどを取材し、需給動向や市場動向などをレポート。次はプラスチック加工で積水化学工業、クボタなどを担当する。石油化学の担当を経て国際部に。松岡さんは語学が好きで入社当初から英語の勉強を始めていて語学学校にも10年近く通っている。国際部への異動はそんな松岡さんを見込んでのことだったのだろう。国際部ではキャップとして活躍する。ここでの仕事はご本人の言葉を借りれば「凄まじく面白かった」ようだ。BASF、バイエルなどの欧州の化学メーカーも取材したし、米国では支局立上げのための事前調査を兼ね、ニューヨークにアパートを借りてダウ・ケミカル、デュポン、エクソンモービル・ケミカルなどがある全米各地を渡り歩く。語学が好きで研鑽を重ねてきた松岡さんにとっては待ち望んでいた檜舞台であり血湧き肉踊る日々を過ごす。そうして松岡さんはこの業界で名の売れた存在となっていく。化学に精通し英語が使える記者は珍しかったので海外企業からの取材依頼は引きを切らなかったそうだ。

化学業界でもアジアの台頭は著しく、化学工業日報もアジアに支局を作ろうということになる。ここでも松岡さんが中心となって事前調査が行われ、2000年にシンガポールに支局が創設され初代支局長として赴任する。その後国際部アジア統括部長として2005年に設立された上海支局を含めアジア全般を見ることになる。2007年からは上海支局長も兼務して、シンガポール、タイ、マレーシア、インドネシア、中国を回った。日本にいる時間はほとんどなく母子家庭のような暮らしを。当時で言えばいえばモーレツ社員といったところだ。その後、総合デスクとなり記者全員をまとめる立場に就く。しかし、管理職では物足りなかったようで志願して連載の特集記事を担当する。最初の特集は「企業のグローバル人材開発」。65歳の定年を迎えるまで総合デスクや副編集局長といった要職を務めながら記事を書くことにこだわってきた。

66歳でリタイアし、今は米国の化学雑誌「Chemical & Engineering News」や日刊工業新聞社の雑誌「工業材料」への寄稿、化学メーカーの社史制作の三つを柱に活動を続けている。この仕事を72歳まで続けていきたいと思っている。記者人生50年を迎えるまで。

(インタビュー・文 / 山本満)