高あみ/彫刻家(町田市在住)

私は三人姉妹の末っ子として新潟で生まれました。小さな頃から一人で遊ぶのが好きで、食事もとらず黙々と絵に集中する、そんな子供だったそうです。小学生の頃には画家になりたいと思っていました。母親の影響が大きかったですね。母親も絵が好きで、よく一緒に絵を描いて遊んでくれました。一方で運動も大好きで、中学ではバスケット部、高校ではボート部に入部し、フォアの選手としてインターハイにも出場しました。ボートの練習が忙しく、入試の準備を始めたのが3年生の夏。ボートの練習が終わった夜、市内にあった個人の小さなアトリエで勉強し、女子美術大学芸術学部立体アート学科に進学します。

立体アート学科は粘土・紙・木・石・金属を造形する学科ですが、2年生の時に素材が安く、長く続けられると思い粘土を選びます。入学当時、同級生は東京の予備校で鍛えられていてデッサン力は数段上。授業に必死でついていく毎日でした。ボートで鍛えた体力で制作に集中し、3年生の時には等身大の人物彫刻を一通り作れるようになります。卒業制作賞ももらいました。そして、修士過程に進みます。

人物を造形するオーソドックスな彫刻をずっと作っていましたが、その頃現代アートやインスタレーションという表現に出会います。その影響を受けて、今までと違った作品を制作するようになります。修士の卒業制作は新潟の母親から送られてきた仕送りの段ボール箱を石膏でたくさん作りました。娘への愛を人物ではなく、アパートに届けられた段ボールの箱で表現しました。その作品を展示したのが、当時表参道にあった貸しギャラリーです。その時に、今お世話になっているギャラリーのディレクターと出会い、現在はユカリアートというマネジメントギャラリーに、作家活動を全面的にサポートしてもらっています。

修了後の2008年からグループ展や屋外アート展、アートフェア等に参加。この頃には今の作風に近い人物彫刻に落ち着きます。その後27歳で結婚するんですが、最初の子供を流産します。それは、これまでに感じたことのない「絶望」でした。麻酔から目がさめて、朦朧とした意識の中で病室の壁を見たんです。その時とっても絶望的な気分だった私は、「気分や弱っているときは、やさしいものや明るいものだけを見ていたい」「誰かのそばに寄り添って、何にも言わないけれど安心する、そんなものを作りたい」と思ったんです。今まで自分は何をしてきたんだろうって。しばらくして、これまで作ってきた作品をほとんど処分したんです。

その後は二人の子どもに恵まれました。育児は本当に大変で、寝不足や疲労といった物理的条件はもちろんですが、子どもの存在以上にあたたかくてやさしいものなど作れなくて、精神的にも制作に向き合えない時期が2年くらいあったと思います。作れないかわりに、1歳からの造形教室「小さな美術室」というものを始めました。作家活動と並行して幼児児童の造形教室でずっと働いていたので知識と経験がありました。そこに自分やママ友の子育て経験から得た悩みや理想を盛り込んだ教室です。

今は再び制作意欲がわいていて、育児と家事の合間の時間を見つけては制作の時間に当てています。家族が出来て生活は大きく変わり、自分の気持ちだけでは前進できないこともたくさん体験しました。だから制作するときも、背伸びせず、その時々の自分自身を正直に表現することで、同じ立場の人や誰かの役に立てるようになれたらいいな、という気持ちでいます。

小学生の時、夢見たことが現実になっています。これからも作品を作り続けていきます。彫刻家高あみをもっと知ってもらいたいですね。