インタビュー 小田武直さん


(町田市中町在住)

小田武直さんは1980年に千葉県船橋市で生まれる。住まいは当時東洋一と呼ばれた大規模団地の高根台団地。小学3年の時に東京都羽村市に転居。そして、中学1年の時に三鷹市に転居し、地元の中学校に転校する。

転校したこともあって中学1年の冬から学校に馴染めずしばしば休むようになる。父親の酒を夜中に飲んで酔っぱらい、上半身裸で家の前に倒れるという事件を機に完全に学校に行かなくなる。中学2年の始業式には酒で勢いをつけて出席したが、同級生の冷たい視線に耐えられず、早々に引き上げてきた。
小田さんは音楽が好きで、幼いころはピアノを習い、小学校ではブラスバンド部でコルネット、中学校では羽村市のジュニアオーケストラに入ってトランペット。練習熱心で、音楽に没頭したが、不登校になるとその活動は途絶えている。

中学1年で不登校になった訳だが幼いころから強いストレスを抱えていた。原因は自分は性的マイノリティーだという事実。小学校高学年から自覚はあった。表面的には世間と上手く折り合っていたが、「仮面の自分を演じていた」と小田さんは話す。いまではLGBTという言葉も一般化し、社会の理解も進んでいるが、小田さんの幼少期や青年期にはそれは恥ずかく、隠さなければならない事実だった。
また、幼い頃から承認欲求が強く、評価されたいという気持ちを常に持っていた。周りの目を気にしすぎていたことも不登校に繋がった。

中学3から学校に復帰し、何とか中学校を卒業し、都立高校に進学する。しかし、入学して早々に学校に行けなくなり退学する。一縷の望みを託していた母親は泣いたそうだ。
そして、通信制高校に入学する。スクーリングが苦手な小田さんは2年留年し22歳で卒業する。

通信制高校に在学していた20歳の頃、「大学に進学し、社会で成功する」という自分が思い描く姿と現実との乖離に絶望し、自殺を考え、海や山を彷徨ったこともあった。「俺はもっとやれたはず」というプライドを持つがゆえに、絶望感は強かった。
アルバイトの帰りに深酒して、明大前駅で倒れ救急病院で運ばれたこともあった。アルコールが絶望感から逃避させてくれる唯一の方法だったのだろう。アルコールに依存するようになっていく。

この頃、医師の勧めもあり、アルコール依存症の自助グループに入る。このグループのミーティングで、同年代の若者が不登校とアルコール依存に陥り、それを克服していく壮絶な体験を聞く。自分も立ち直れるのではないかと一筋の希望を見出したという。それ以降、自助グループの活動は続くが、活動を中断するとアルコール依存に戻るということを繰り返していく。

22歳で高校を卒業し、市ヶ谷にあった印刷会社に就職する。しかし、入社した年の5月の連休前から欠勤が続くようになる。仕事が終わるとすぐ酒を飲んでは次の日は欠勤という生活が続き、退職する。業界紙の記者を経て、父親が経営していた土地家屋調査士事務所、マンション管理の会社、郵便局の配達、行政書士事務所、病院の薬局と仕事を変えている。

行政書士事務所に勤務していた時、偶然に立ち寄った教会でミサに参列する。何か懐かしく、故郷に帰ってきたような気持ちになったという。自分が帰る場所。自分を救ってくれる場所だと直感した。29歳で洗礼を受ける。修道院に籠り祈りの生活を送ろうと考えた時期もあったようだ。

お世話になった司教の勧めもあり、神学生養成担当の司祭のいる教会に通うようになる。そこで、教会学校や青年会の活動を通し、ひきこもりや不登校の若者達に出会う。信仰を持つ自分。不登校の経験を持つ自分。自助グループで救われた自分。そんな経験を活かして不登校や引きこもりで苦しむ若者の助けになりたいと考えるようになる。ひきこもりや不登校の体験をわかちあう自助グループを東京三田で立ち上げる。30歳の時だ。今でもその活動は続き、活動の場は三田、八王子、練馬、福岡と広がっている。

33歳で神学院に進む。ここでもアルコール依存が再燃し、普通より少し遅れて7年間で卒業し、40歳で教会の司祭となる。

今は教会での仕事の傍ら、30歳の時に立ち上げたひきこもりの自助グループの活動やアルコール依存症に苦しむ人達に寄り添う活動をライフワークとして続けていこうと考えている。
(インタビュー・文 山本満)