インタビュー 小口誠さん

小口誠さんは1979年横浜市生まれ。地元の小中高校を経て東京田中千代服飾専門学校に進学する。幼い頃はサッカー部にも所属していたが中学2年くらいから洋服に興味を持ち、高校生の時には母親のミシンを借りてリメイクを始める。ミリタリーコートを裁断してジャケットにリメイクしたりと。高校からはバイト代をつぎ込んで洋服を購入するようになる。ファッション雑誌のBoonやメンズノンノを読み漁っては裏原宿に通う。裏原宿で生まれた「ア・べーシングエイプ」、「アンダーカバー」、「AFFA」といった尖ったブランドに心を奪われる。今と違いゆるい時代だったので、そうした店に朝早くから並び、プレミア品を買っては原宿の遊歩道で売った。朝5,000円で買った品が昼15,000円で売れたこともしばしば。今の商売の原点はここにあるのかもしれない。

東京田中千代服飾専門学校ではデザイナーを目指す男子が多い中で、縫製を学ぶ「アパレル科」を選ぶ。アパレル科の9割は女性だったそうだ。卒業作品はスーツを作っている。卒業後、横浜にあったエディ・バウアーで働く。ここの2年間で接客や店舗運営の経験を積む。

退社し、平日はバイト、週末はライブハウスやクラブに通う日々が2年間続く。歌舞伎町にあったライブハウスのLIQUIDROOMにも通った。洋服への興味が薄れ、音楽や映像、アートにはまっていた時期だ。インディペンデントカルチャーのホットスポットだった映画館「アップリンク」にもよく行ったそうだ。そして、部屋にある金目の物を全て売払い、インドに向かう。目当てはヒッピーの聖地と言われていたGOA。1960年代以降、欧米社会をドロップアウトしたヒッピーと呼ばれる若者たちは、こぞってGOAを目指した。物価が安く温暖で、自由と音楽を愛するヒッピーたちの理想郷。1990年代に入ると、サイケデリックなテクノに民族音楽を融合した「ゴアトランス」が生まれている。そうした音楽フェスも盛んに開催されていたそうだ。音楽、映画、アートにはまっていた小口さんにとって一度は訪れてみたい場所だったのだろう。インドには4か月滞在している。

帰国後、実家で一服ついていると、専門学校の仲間二人が事業を立ち上げるという情報を耳にする。仲間に加えてもらい、三人で会社を立ち上げて古着店「ULTRABO」を開業する。小口さん26歳の時だ。開業前の1年間で一人100万円、三人で300万円を貯金して開業資金に充てたそうだ。

開業した古着店「ULTRABO」は町田市中町の奥まったビルの二階にあって目立たない。お客さんはなかなか入らなかった。最初の二年間は売上も思わしくなく、小口さんがバイトを掛け持ちし、店を支えたという。3、4年目くらいから口コミでお客さんが入るようになり、店の経営も安定していく。売上も順調に伸びたので表通りに面したビルの1階に移転する。それが現在の店舗だ。

競争が激しい町田でULTRABOは差別化を図ってきた。アメリカで仕入れる訳だが日本人にフィットする大人用のサイズが少ないのでボーイズサイズを積極的に仕入れた時代もあった。また、革靴、バッグ、アクセサリーといったアイテムを多数揃えていることも特徴となっている。アイテムの多さは町田の中で目を引く存在だろう。

創業から16年、移転して8年が経とうとしている。初心に戻り、商品や接客の質を高めるとともに時代に敏感な商品構成を心掛けている。最近ではフレアパンツも積極的に展開している。コロナの影響を受けて厳しい経営環境は続いているが、コロナ後を見据え、将来、ジャンルを特化した店舗を出したいと考えている。そして、いつかスタッフを雇い、若い人を育てていきたいと思っている。

(インタビューを終えて)
古着屋は町田が誇るカルチャーだ。ULTRABOもその一翼を担っている。この松明を掲げ続けて欲しいと思う。

取材・文/山本満