渋谷洋平さんは生まれも育ちも相模原。小中とも地元の学校に通い、多くの仲間から愛される楽しい少年時代を過ごしている。今でもその片鱗はあるが、ちょっと不器用な感じの愛されキャラだった。部活はバスケットボール部でポジションはフォワード。

家から少し離れた相模原市中央区にあった弥栄東高校に進学する。弥栄東は一般コース、音楽コース、美術コースがあって洋平さんは一般コースだったが、音楽や美術を目指す個性的な同級生に囲まれた高校生活を送る。音楽大学や美術大学に進学している仲間も多い。

高校では、バスケットボール部に入らず、三和の野菜売り場のアルバイト、映画、自転車での街歩きと普通の高校生活を楽しんだ。
特に映画は好きで、ビデオショップでDVDを借りては「ショーシャンクの空に」「グッドウイルハンティング」といったヒューマンドラマにはまっていた。今でもこうした映画をよく見るそうだ。

東洋大学国際地域学科に進む。途上国が抱える貧困問題などの課題をグローバルな視点で学ぶ学科だった。ゼミでタイのスラム街を訪れ、暮らしの違いに衝撃を受ける。

3年の時には起業という選択枝も考え、いろいろな事業の可能性を模索する。ソフトバンクの孫正義、マイクロソフトのビルゲイツが注目を集めていた時代だったことも影響したのだろう。
卒業を控え起業するか就職するかで悩む。家業を継ぐということも頭をよぎったようだ。

当時、デザインから印刷まで一貫対応できることで注目されていた印刷会社のデザインラボ(現プリントボーイ)に就職する。都内の店舗で働いていた2011年3月に東日本大震災が起きている。

その頃、祖父が他界し、実家は相続問題に直面する。相続のコンサルタントとの打合せに父親に請われてしばしば同席し、相続税制の仕組みを知り、不動産を持つ家の在り方を実感したという。

5年勤務したプリントボーイを退職。その後の1年間は充電期間と決め、貯金を取り崩しながら、宅建やファイナンシャルプランナーの資格を取得する。
そんな洋平さんの姿を見て、父親は家業の不動産管理会社への入社を認める。

不動産の事をもっと知りたくてイベントや展示会に足繁く通った。そこで大家業の新しい潮流を知る。
今までの大家業は、入居手続き、物件管理、入居者管理のほとんどを不動産会社や管理会社に任せ、残る利益を受取るという受け身の業態だった。また、世間一般には「労せずして収入が入ってくる楽な仕事」といったイメージがあった。

しかし、自らも大家でもある「大家の学校」を主宰する青木純さんが唱える大家業は違っていた。
人口減少の我が国にあって、黙っていても入居者が集まるという時代は終わった。大家業は大きなリスクを伴う事業であり、片手間でやるビジネスではない。大家は事業家なのだ。

また、住み手と深く関わり、一緒になって生活を創り出していく楽しくも、責任の重い仕事なのだ。

渋谷さんの実家は、建物は所有していたが、住み手との関わりも薄く、管理会社に任せきりの旧来型の大家さんだった。

洋平さんは父親や弟の純平さんと共にも、新しい大家業を目指し、一歩一歩、動き出す。
入居手続きや建物管理といった不動産管理業務を自前でやるようになる。

自社が持つマンションの地下に居住者や地域住民の活動をサポートする多目的スペースも作った。
そのスペースを活用し、様々なイベントを企画運営している。また、近隣の公園の緑化整備にも取組んでいる。

そして、相模女子大学の依田先生の呼びかけで集まったメンバー4人で、相模原の街で働く100人の話を起点に緩やかなコミュニティを創ろうとする「さがみはら100人カイギ」も主宰した。

新しい大家像を目指す洋平さんのこうした生き方が、少しずつ相模原や町田の大家さん達に伝播していくことを願っている。大家さんは街を変える大きな力を持っているからだ。

インタビュー・文 山本満)