河本泰信さんは岡山県勝田郡勝央町に生まれる。小学生の時は吉本新喜劇に夢中になるギャグを連発するおもろい子だったが、中学生からは父親の期待を背負い、勉強一筋に。家庭の事情で大学への進学が果たせず、挫折感が強かった父親は長男の河本さんの教育に熱心だったようだ。そして、河本さんは、毎晩のように酒に酔い、酔いと共に日頃は気難しい父が、機嫌が良くなるのを見て育っている。
高校は地元の進学校に通い、修学旅行にも参考書を持参して呆れられるほどの勉強漬けの毎日を送って、岡山大学医学部に合格する。
岡山大学医学部は中四国を代表する名門で秀才が集まってくる。河本さんは努力をして入学したが、軽々と入学を果たすような秀才への嫉妬と勉強の難しさに圧倒され、入学半年後に燃え尽き、不登校引きこもりになる。そのような時、深酒によって周囲のよそよそしさが瞬時に溶け、心地よい世界が広がることを体験し、正体がなくなるまで飲む習慣が始まる。根っこには「普通」の学生生活への屈折した嫌悪と疎外感があったようだ。同じく、「普通」への反発から学生運動にも没頭し、反原発や反基地闘争の集会やデモにも参加した。酒と学生運動が「普通の」大学生活から逃避させてくれる手段だった。
このため留年を繰り返したが、試験勉強をする動機を試験後に気持ちよく酔っぱらうためという本末転倒な目的にすり替えることで乗り切る。アルコール依存症の道をまっしぐらである。結局、通常2年の教養課程が4年、4年の専門課程が5年、9年かかって大学を卒業する。
「屈折した憎悪という自分の闇を知りたい」と精神科の道を選ぶ。ただ結局は酒中心の生活は勤務医になってからも続いた。そのため最初の結婚はすれ違いが多く破綻する。帰宅すればまず一杯、それが深夜まで毎日続く。ほとんど会話も無く、酒の失敗や不始末が度重なり、そのことで責められる。本人曰はく、「なにより酒を飲むロボットと暮らすのに耐えられなかった」のだろうと。
一方で、病院ではアルコール依存症に熱心に取り組む医師となる。患者に酒から解放されたい自身の願望を投影し、断酒会や自助グループを熱心に勧めた。
その後、二度目の結婚をする。再婚してもアルコール依存の生活は変わらずで勝気な奧さんはとうとう切れる。「アル中が、アル中患者を診て、恥ずかしくないの」と看護婦をしていた奧さんは河本さんに詰め寄り、精神科病院の受診と入院を迫った。それは凄まじく、抗えそうにもなかった。12年前のことだ。河本さんは病院へ行く代わりに神戸にあった自助グループに参加した。その晩から酒は口にせず、週1回の神戸通いを続けた。そして、関東に移ってからも一滴のお酒も口にしていない。
病院での河本さんの依存症の治療方法は大きく変わる。自助グループに参加する時の身を削る苦痛を経験した以上、今までのように自助グループへの参加を「純粋に」勧めることはできなくなった。代わりに、自身の体験に基づき、「欲望充足メソッド」と名付けた独自の治療法を試みるようになる。「飲酒で満たしたかった欲望は何か」を尋ね、酒以外の欲望を患者が探し出すのを手助けする。酒を断つことに注目するのではなく、ゲームであれスポーツであれ、自身の欲望を「正直に」自覚し、代替行動を実践することが依存症の解決に繋がると河本さんは考えている。仕事依存やギャンブル依存、何でも一つの事に強く依存すると弊害を生む。いろいろな事に関心や欲望を持つこと(プチ依存)が重要だということらしい。
河本さんはKAPIという団体を作り、ギャンブル依存症対策の活動を精力的に行っている。JRA、ボート競技関連団体などの公営ギャンブル施行者、各地の精神保健福祉センターなどに対しメンタルヘルス、特に嗜癖(しへき)行動に関するセミナーや啓発資料作成などの支援を行っている。また、地方自治体や業界団体の中に作られた研究会の専門委員として嗜癖(しへき)行動に関する調査研究も行っている。他に地域のメンタルヘルスに関する問題、特に最近は色覚特性(色弱/色覚異常)を持つ子どもとその親の心理サポートにも取り組んでいる(True Colors)
河本さんにとってこうした病院以外の活動は飲酒に替わる欲望充足の対象なのだという。
アルコール依存症だった体験を活かし、これからも専門家と当事者との複眼的視点でメンタルヘルス活動を通じて社会貢献をしていきたいと河本さんは話してくれました。
(インタビュー・文 / 山本満)