宇海さんは横浜の保土ヶ谷で生まれる。小学校3年生の時に宮城県古川市に、その2年後には仙台市に移り住んでいる。

古川市に転居してすぐに、劇団四季の演出家として活躍した梶賀千賀子さんが演出する市民ミュージカルに応募し、メインキャストとして初舞台を踏んでいる。この舞台が宇海さんの音楽人生のスタートとなる。

その後、梶賀さんが主宰する「SCSミュージカル研究所」に入り、様々な舞台を経験していく。梶賀さんは多作でオリジナルミュージカルを年4回も制作したそうで、宇海さんは欠くことのできない主要なキャストとして毎回のように舞台を踏んでいる。

ミュージカル一筋の道を歩んできた宇海さんだったが、将来の夢となるとピンと来ていなかったようだ。ミュージカルは歌、踊り、演技で成り立っているが、歌うことが何より好きで、無上の喜びを感じていた宇海さん。中学3年生の時、歌手の道を歩もうと決意する。

歌手を目指して、高校2年生の時に上京。LUNA SEAの河村隆一さんのプロデュースでデビューするという話も進んでいたそうだ。

それがとん挫した折りに、知人の紹介でミュージカル「赤毛のアン」のオーディションを受け、1,500人の中から主演のアン役に選ばれる。それが17歳の時。18歳で短大に入学し英語を学び、卒業後は町田にあったボーカル教室の講師やライブハウスで活動する。

21歳で全国を回るライブ活動を始める。相方はギタリスト、宇海さんはボーカルというユニット。歌える場所があれば何処へでも行った。学校、病院、ショッピングモール、祭りの会場、いろいろな場所で歌ってきた。ギャラをもらえない会場ではCDを売って凌いだそうだ。軽自動車に乗って静岡、名古屋、大阪、広島と巡ったこともあった。2011年にはアフリカのガーナて歌った。震災のあった神戸や東北でも歌った。広島の原爆ドーム前の追悼式典でも歌った。

そんな生活が9年も続くがいっこうに報われない。夢みていた歌手としての成功。憧れのジミ・ヘンドリックスにもジャニス・ジョプリンにも成れない自分に絶望したという。死にたいと思ったこともあった。

30歳の時、町田の木曽団地に引越す。そして、町田のライブハウス「まほろ座 MACHIDA」で澤近泰輔さんから出演の依頼を受ける。
澤近さんはフォークソンググループのNSPを経て、工藤静香やCHAGE and ASKAのキーボードや編曲、バンドマスターも務めるベテランミュージシャン。宇海さんの歌を聴いた澤近さんは歌手としての可能性を強く感じたそうだ。そして、惚れ込んだ。

澤近さんという心強いパートナーを得て宇海さんは歌手人生を再スタートさせている。澤近さんのプロデュースでCD制作も進んでいるし、今月には鶴川ポプリホールでのコンサートも開催する。

澤近さんが88歳、私が61歳の時にエディット・ピアフ「愛の讃歌」を歌うのが夢ですと、インタビューの最後に宇海さんは話してくれました。
心強いパートナーを得た宇海さん。これから本当の歌手人生がスタートするのだろう。門出を祝いたい。

(インタビューを終えて)
人にはいろいろな出会いがある。出会いが人の人生を変えことがある。歌うことが大好きな宇海さん。宇海さんの歌に惚れ込んだ澤近さん。二人の出会いが、凄いことを成し遂げてくれるに違いない。そんなことを思いました。

(インタビュー・文/山本満)