堀場祐太さんは八王子市で生まれる。4歳くらいの時、相模原市の原宿に引越している。地元の小中学校を卒業し、県立橋本高校に進学する。

一人で自転車やローラースケートに乗って、遠く八王子まで遊びに行くような元気な子どもだった。
中学ではバスケット部、高校でもバスケット部に入るが、高2からパチンコやゲームセンターに入り浸るようになる。


卒業後は大学進学を目指し浪人するが、予備校にも行かず、パチンコに明け暮れる生活が続く。月に15万円稼ぐパチプロみたいな生活が3年間続いたようだ。その当時、若い人の間でパチンコが大ブームで堀場さんの周辺でも同じような人がたくさんいた。

23歳の時、地元の友達に誘われて、寝具の訪問販売を始める。
26歳で結婚し、子供もできて、将来について本気で考え始める。


寝具や浄水器の訪問販売の卸やOEMの仕事を続けながら、次なるビジネスを模索し始める。訪問販売には限界を感じていた。


これからはインターネットの時代だという確信があった。インターネットやWEBを使ったビジネスの可能性を探った。そのためにホームページも自分で作ってみたそうだ。そして、アフィリエイトに可能性を見出す。堀場さん30歳の時だ。


いろいろと自己流で試してみるが、思ったような成果が出せなかった。試行錯誤は3年続く。
以前からウオッチしていたアフィリエイト界で有名な人物の講座を大枚はたいて受講する。「3ヶ月内に10万円稼がせます」みたいな謳い文句だった。


最初に選んだ商材は「青汁」。青汁に関する書籍を30冊以上読破し、知識を詰め込む。渾身の力を注いだWEBサイトはgoogleの1ページ目のトップに表示された。


次は「太陽光発電」。当然、書籍は読み漁ったし、自宅に太陽光発電装置も設置した。売上も上がったが、たくさんのスタッフを使ったので経費もかかったようだ。1サイトで最大300万円稼いだ時も、200万円以上の経費を使っていた。


Googleの検索アルゴリズムはすぐ変わるので、最盛期にはWEBサイトを300以上も作っていたそうだ。アルゴリズムが変われば1位から8位に急降下し、一円も稼げなくなる浮き沈みの激しいビジネスだった。刺激的だったが、少し疲れを感じていた。


事業としてアフィリエイトを続けながら、メディアを作ったり、次なるビジネスを探した。小さな失敗を繰り返す中で、「便利屋」に行き着くことになる。


可能性を探るため、事務所があった町田市の野津田でテストマーケットをしてみた。社員と二人で周辺に2,000枚のチラシを撒いたら、3、4件仕事の依頼がきたそうだ。


これはいけると確信し、長年仕事を共にしてきた橋本高校の同級生でもあるパートナーと便利屋を始める。
アフィリエイト事業からは徐々に手を引いていった。便利屋を始めて7年目を迎えている。


堀場さんは言う。便利屋はリピートビジネス。コツコツやって信用を得ることが大切。3,000円の小さな仕事もやる。そうすると、次も仕事を頼まれる。一生の付き合いになる。そうしたお客さんが年々積み上がっていけば、大きなビジネスになる。また、営業エリアも半径5キロ以内と決めているそうだ。


堀場さんは全国400社を超える日本最大の便利屋コミュニティを運営している。仲間内で困り事を相談し合える場が欲しくて始めたそうだ。

今では堀場さんの体験や意見が聞きたくて全国から多くの人が訪れてくる。

また、コンサルタントも始めている。便利屋は元手も掛からないので、始める人もたくさんいるが、集客のノウハウを持っている人は少ない。堀場さんはアフィリエイトで培った集客の知識を持っている。また、便利屋を7年間やっているのでノウハウも蓄積している。

便利屋集客の専門家として、チラシを基軸に集客のアドバイス、ホームページの制作と管理を一括して請け負っている。今では、相模原、広島、板橋、東久留米、熊本など10社をコンサルタントし、全社を成功に導いている。

最近、コンサルした人から感謝されることが多い。生活のためにバイトを掛け持ちしていた人が、家族でユニバーサルスタジオで豪遊できたと言われた。彼の人生を家族丸ごと幸せに出来たと思えてうれしかった。

この仕事は天職だと思う。自分が死んだ時に「あの人に世話になった」といわれるような、人に幸せを与える人生を送りたい。


そんなことを堀場さんは話してくれました。

(インタビュー・文/山本満)