府中市在住 株式会社F.F.P
宮﨑太貴さんは1990年に府中市で生まれる。兄の影響で中学校から剣道をはじめ、当時は結構強かったらしい。音楽も好きで中学2年の時に音楽で身を立てようと決意する。ギターが上手くて、いろいろなバンドから声がかかり、一時は5つのバンドを掛け持ちしていたそうだ。
音楽で飯を食っていこうと決意した宮﨑さんだが、高校2年の時に音楽の道を諦める。将来の目標も無く、煙草を吸ったり仲間と酒を飲んだり、不良になりきれない中途半端な不良もどきでしたと当時の自分を振り返っている。
学校の勉強は嫌いだったので、大学に行く意味が見いだせず、多くの同級生が進学していく中、就職の道を選ぶ。就職してお金を稼いで、その金で好きなことをしようと。そこそこ働いて趣味に生きる人生を選択したということか。だから、業界とか業種とか会社へのこだわりはほとんどなかった。高校の進路指導の教諭とそりが合わなかったこともあり、ハローワークにも通ったそうだ。
高校を卒業し、中堅の住宅建材メーカーに就職する。工務店や大工さんといった顧客のもとを2tトラックで回る営業の仕事。仕事は面白くなかったようで2年8カ月で退職している。
次の職場は人材サービスの会社。高校時代に就職で悩み、苦労したことがこの業界を選んだ理由。世間を知らない高校生が就職先を選ぶことは誰にでも難しい。宮﨑さんも五里霧中の中で前に進むような感覚だったという。自分と同じように不安に駆られる多くの若者の水先案内人になろうと人材紹介の会社を選ぶ。しかし、この会社には10ヶ月しか在席していない。年下の上司に些細なことで叱責され続け、精神的に追い込まれたし、利益を重視し、顧客を顧みない会社の実態にいやけがさしたようだ。
次の会社は半導体商社。追われるように退職し、精神的にも疲れていたのでどこでもよかった。だから、明確な意志で選んだ会社ではなかったが、ここで仕事のルールや営業の基本を学んでいく。顧客との人間関係をどう築くか、新規開拓をどう進めるか。全てこの会社で働きながら学び、身に付けた。この会社で約6年間勤務したが、今までで一番充実した会社員生活だったという。私が宮﨑さんと出会ったのはこの会社に勤務していた頃で迷いはありつつも、やり甲斐のある仕事をしているなと感じたものだ。
営業の基本は「困っている人を助ける」という心持ちや姿勢だと思い知ったのもこの会社。顧客はいろいろな悩みや課題をいつも抱えている。それを解決するために知恵を絞り、汗をかく。そうすれば自然と信頼関係が築かれていく。言われてみれば当たり前のことだが、意外と出来ていない人がたくさんいる。宮﨑さんは良き上司、良き同僚に恵まれ、営業の基本を学んだ。
住宅建材メーカー、人材サービス、半導体商社とサラリーマン生活が10年を迎える頃、宮﨑さんはこれからの人生を考え始める。起業を強く意識し、民間や地方自治体が開催する創業塾に足繁く通うようになる。
2019年に、約6年勤務した半導体商社を退職し、幼なじみ2人と府中発のファッションブランド「F.F.P.」を立ち上げる。宮﨑さん自身はファッションに興味があった訳ではないが、親友2人の夢を実現してやりたいという想いもあったようだ。宮﨑さんは会社設立を主導し、代表取締役社長に就く。その起業にあたり宮﨑さんの取った行動が面白い。アパートも引き払い、自家用車も家財も全て処分する。安定したサラリーマン生活を捨て、厳しい起業の道に備えた覚悟だったのだろう。「やってやるぞ」という気持ちが沸き上がってきたという。アパートを引き払い、メンバーの家に潜り込む住所不定の素浪人社長となる。
4年目を迎えた株式会社F.F.P.。まだまだ軌道に乗ったとは言い難いが、少しづつ手ごたえを感じはじめている。2度のクラウドファンディングに成功し、改造した軽自動車を使った移動販売も実現させた。収入は半導体商社時代に遠く及ばないが仕事は楽しい。商品開発、マーケティング、会社の運営と課題は尽きない。しかし、自分達で考えて計画し、実行し、成功も失敗も自分達のものという経験は何事に代えがたい。
宮﨑さんは最後に「F.F.P.に止まらず、何かを成し遂げようとする人の成功のために力を尽くす人生を歩んでいきたい」と話してくれました。
―インタビューを終えてー
人は誰しも人生に安定を求めるものだ。私もそんな人生を歩んできた。最近、私の周辺には安定した会社員生活を捨て、本当にやりたいことを仕事にするために会社やNPO法人を立ち上げる若者がたくさんいる。宮﨑さんもその一人。日本の未来もまだまだ捨てたものではないと思う。
(インタビュー・文 / 山本満)