インタビュー 野中元樹さん
野中元樹さんは千葉県船橋市生まれ。父親が電電公社に勤務していたので幼い頃から転居を繰り返す。千葉の臼井から東京の目黒、神奈川の逗子、箱根、そして町田。父親は口数は少なくおおらかな人。母親は几帳面で躾は厳しい人だった。
町田第二中学校を経て東京都唯一の全寮制の男子校だった都立秋川高校に進学する。全国から集まった男たちと寝食を共にし、励まし、遊び、語り合う日々は何物にも代えがたい経験だった。
大学に進学するが、学内で勉強した記憶は余りない。本もたくさん読んだし、講演会にも足繁く通った。映画もよく観た。寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」を実践したような感じか。次第に「いかに生きるべきか、そして社会はどうあるべきか」を考えるようになる。原口統三、石原吉郎などの文章に触れ、強く影響を受けた。戦意高揚に加担した己を恥じ、朝日新聞を退職して故郷の秋田に帰り週刊新聞『たいまつ』を創刊したジャーナリストむのたけじの生き方にも惹かれたという。
卒業後は創業間もない小さな出版社「スピン」に就職する。同社が発刊したミニコミ誌の金字塔といわれる「DABU DAMO(ダブダボ)」の担当として仕事一色の暮らしが始まる。記事も書くし、広告も取る、書店への販売も。会社から徒歩1分のアパートに引っ越して仕事に明け暮れ、3年間1日も休みが無かったそうだ。覚悟した入社だったが耐えきれず入社3年目で逃げ出すように退職する。当時交際していた彼女とほとんど会うことが出来ず、失恋してしまったショックが決定打となったようだ。
身も心もぼろぼろになって、実家に戻り、父親が創業したリキデンに入社する。創業したばかりで会社経営で四苦八苦していた両親を助けたいとの思いもあったようだ。
野中さんの父親は苦労した人で、家庭は貧しく単身で中国の満州(中国東北部)に渡り、学費が無料だった新京工業大学で学んでいる。ここで学んだ父親は戦後、電電公社に入社し、45歳のとき請われて日本電気に転職し、イランに駐在し電話網の普及に尽くしている。55歳で退職し、日本電気の通信設備のメンテナンスを請け負う会社リキデンを創業する。この会社に野中さんは入ったわけだ。
リキデンは日本電気の下請け企業だったので野中さんが打合せに行っても裏口からしか入れてもらえない。それが屈辱的で何としても正面玄関から堂々と入りたいと思ったそうだ。そこで、この会社の無線機を取扱う販売代理店となる。販売代理店になることで下請けからの脱皮を図ったのだ。
1991年に父親の会社から無線機販売部門を分離させる形で起業する。マンションの小さな一室、社員5人でスタートする。最初はトラックやタクシーで使う無線機の販売が主だった。アスクルの販売店など時代を先取りするような事業にも取組むが思うようにいかず創業7年目に大きな赤字を出す。創業期からの従業員は辞めていき、野中さんも精神的に追い詰められたという。
そんな時、友人から「マクドナルドのイベントで1日だけ無線機を20台に借りられないか」という問い合わせが。そこで、全国のイベント会社にDMを打ってみると無線機のレンタルの需要が結構あることが分かり、レンタル事業を1998年に、リース事業を2001年に始める。オンザウェイが飛躍するターニングポイントとなる。
今では東京オリンピック、ラグビーワールドカップ、東京モーターショウなどのビックイベントから町内会のお祭りまであらゆるイベントから声がかかる。東京オリンピックでは1万5千台を貸出したそうだ。また、トラック、警備会社、ホテル、学校、映画館、福祉施設などに常時2万台の無線機を貸出している。
野中さんには社長と部下という感覚はない。自分より能力の高いスタッフがたくさんいるし、自発的に仕事を進めてくれる。そんなスタッフと一緒に仕事ができることがなにより楽しく幸せを感じるという。
オンザウェイは今年「TERAS(テラス)」という新事業をスタートさせた。AI技術を使った人数カウントサービスだ。無線機のレンタル・リース事業、アスクル事業と並びオンザウェイを支える事業に育て上げたいと思っている。
また、今年「一粒の麦」という会社を立ち上げた。この会社をベースに、これからの人生は困難を抱えた若者達に成長の機会を作っていきたいと思っている。
ーインタビューを終えてー
野中さんは私と同時代を生きた人。脱脂粉乳を飲んでいた小学生の頃。安保闘争、大学紛争といった学生運動の空気が色濃く残っていた学生時代。天井桟敷の寺山修二、赤テントの唐十郎、ATG、新宿の蝎座、日活ロマンポルノといったアングラ文化も経験してきました。同世代と話すとその頃を思い出し、懐かしく、楽しいインタビューとなりました。
野中さんの尊父は日中戦争時に満州の大学で学び、その後兵役に就いています。私の父親も召集されて戦地に赴いています。私は直接戦争を経験してはいませんが、その事実を身近に持つ世代として、それぞれが成すべき責務があると、ウクライナ侵攻のニュースを見ながら思いました。
(インタビュー・文 山本満)