インタビュー 喜田亮子さん

喜田亮子は父親が外務省の職員だったので、生まれたのが香港。その後北京、日本に戻って千葉県船橋市、母親の実家があった神奈川県大和市、小学生1年から3年まではカナダのバンクーバー、その後、北京とワールドワイドな転居を繰り返している。
元々はおとなしい少女だったが、度重なる転校を繰り返すうちに、仲間と早く仲良くなろうと、明るくて面白いキャラクターを身に付けていったようだ。
北京を最後に海外勤務が続く父親と離れ、祖母が暮らす大和市に母親、妹とともに落着き、町田にあった桜美林大学の付属中学校に入学。そして、付属高校、大学と進んでいる。中学、高校ではバドミントン部で活躍している。
桜美林大学では中国語中国文学科を選ぶ。幼い頃中国で暮らしたが、中国語がほとんど話せないことにもどかしさを感じていたし、中国語を学び中国でキャリアを積んでいた父親の存在も影響したのだろう。大学時代は中国語に力を入れた。
大学の4年間は世界中をリュック一つで飛び回るバックパッカー生活を謳歌する。当時バックパッカーは大ブームだったし超円高の時代でもあった。北京、インド、タイ、シンガポール、マレーシア、ベトナムなど10か国余りを旅した。上海での短期の語学留学も経験している。
喜田さんは団塊ジュニア世代。大学を卒業した1998年はバブル経済が崩壊し、山一証券や日本長期信用銀行が倒産するなど景気は最悪の就職氷河期。
学生時代から社会教育や生涯教育、地域貢献に興味があったので、一般の会社ではなく、社会課題に取組むような仕事に就こうと考えていた。
卒業し、トヨタ財団が25周年事業として東京と名古屋で開催した「中国古代漆器展」の臨時スタッフとして採用される。1年間滞在した中国人スタッフの日常生活を支える裏方として楽しくも多忙な日々を送る。
丸1年かかった展示会が終了した後、正規採用され、2019年に退職するまで21年間勤務している。
トヨタ財団は、1974年にトヨタ自動車によって設立された。創設以来、生活の質の向上、自然環境の整備と保全、社会福祉の充実、教育・文化活動の振興などにつながる意欲的・創造的な研究や事業に対して、多彩な枠組みによる助成を展開してきた。
今も国内の社会課題に取り組む団体向けの「国内助成プログラム」、若手研究者を支援する「研究助成プログラム」、日本を含むアジアに共通する課題解決に向けた「国際助成プログラム」の3つを柱として活動続けている。市民活動支援の草分け的な存在だ。
喜田さんは1年かかった中国事業が終わったあとは若手研究者を支援する「研究助成プログラム」を担当する。研究テーマは漫画、チンパンジーなど多岐にわたり、チベット自治州にも足を運んだそうだ。
その後、地域課題に取り組む団体向けの「国内助成プログラム」を10年経験する。平均で年間20件くらいの案件があったそうだ。鹿児島の離島「甑島」のフィッシャーマンズフェスを応援したことも。
21年勤務したトヨタ財団を退職し、2019年に設立された一般財団法人町田市民活動サポートオフィスに初代事務局長として迎えられる。
サポートオフィスはNPOなどの地域活動団体を支援する中間支援組織。地域活動団体を対象とした相談事業、団体の立上げや運営のノウハウを学ぶ「まちだづくりカレッジ」などの講座事業、町田市市民協働フェスティバル「まちカフェ」の事務局、学生や企業との協働を支援する協働事業等を展開している。
設立から6年。活動の幅を年々広げ、市民の寄付を原資とした活動団体への資金助成を始めるなど町田市で活動する人々にとって不可欠な存在になっている。
これからはまだ活動していない層にアプローチしていきたいと考えている。まちカフェでも「ワンデイおうえん隊」を募集している。本格的なボランティアは敷居が高いが、1日だけの気軽なボランティアならやってみたい人は結構いると思う。それが社会活動人材の裾野を広げるきっかけになる。
個人に働き掛け、個人を社会活動に巻き込んでいく。それが喜田さんの新たな目標だ。
(インタビュー/文 山本満)