インタビュー あらたに葉子さん
あらたに葉子さんは世田谷の奥沢で生まれ、小学校5年の時に町田市に引っ越している。父親は東京フィルハーモニー交響楽団や名古屋フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者を歴任し、町田フィルハーモニー交響楽団や町田フィルハーモニー合唱団でも長年にわたり音楽監督や常任指揮者として活躍した町田にゆかりの深い音楽家。母親もピアニストという音楽家一家で育った葉子さんの身近にはいつも音楽があった。
また、小学生の時から授業中に突然歌いだすようなちょっと変わった天真爛漫な少女でもあったようだ。
東洋英和女学院の中等部に進学した葉子さんは音楽部に入りミュージカルと出会う。
最初の舞台で主役を演じることになるが、大勢の前で歌うことに自信が持てず、父親に相談すると東京芸大の先生を紹介してくれた。この先生はとても厳しく、クラシックの発声を一から叩きこまれた。厳しさに耐えられず、いつも辞めたいと思っていたが、それを言い出せないほど怖い先生だったようでトレーニングは高等部を卒業するまで4年間続けている。中等部、高等部を過ごした東洋英和時代はミュージカル部の活動、声楽のトレーニングと音楽に明け暮れた。
大学は国立音楽大学声楽科に進む。ここで葉子さんが中心となってミュージカル劇団「夢有民(ムーミン)」を創る。演目は全て自分達で一から創作していった。創設メンバーとしてミュージカル漬けの毎日だったようだ。
大学4年生の時にニューヨークのアルビン・エイリーダンススクールに短期留学する。葉子さんはダンスが苦手。ミュージカルをやっていくには、ダンスを強化したいと考えたのだ。また、本場のミュージカルに触れてみたい、本当のニューヨークを感じてみたいとの思いもあった。
ニュージャージー州にあったホームステイ先の小学生に、自分の学校で開催されるミュージカルに誘われ、衝撃を受ける。演目は日本でも有名な「ウエスト・サイド・ストーリー」。ネイティブが演じるから、たとえ小学生でも日本で見るウエスト・サイド・ストーリーとは全く違った。英語のテンポ感を、ネイティブでない自分には表現できないと痛感した。いくら逆立ちしても敵わないと。
日本に戻って先ず始めたのが和太鼓だった。ミュージカルも輸入物ではなく和製ミュージカルを目指そうと考えて劇団音楽座の門を叩く。音楽座は1977年に桐朋学園大学演劇科の卒業生を中心に創設されたミュージカル劇団で、既に銀座の博品館劇場や下北沢の本多劇場で公演するなど一定の評価を受けていた。東宝や劇団四季などは殆どが輸入ミュージカルで、当時、音楽座のように日本製のオリジナルミュージカルをやっている劇団は少なかった。
音楽座は演劇科出身の団員が多かったので歌える人はその頃は少なく、入団間もない葉子さんにもすぐに役が付いた。アンサンブルの一員として本公演や地方公演に出演する。ここで約3年間。
その後はNHKのアシスタントディレクターを経て、NHK教育テレビの「さわやか3組」にレギュラー出演している。
NHKや学研が主催する音楽教室で「歌のお姉さん」として全国各地の小学校を回るようになる。音楽座、NHKと仕事を経験してきたが、歌を通して、子ども達と直接ふれあうこの仕事がとても楽しく、天性の仕事に巡り会えたと思ったそうだ。天真爛漫で即興が得意な葉子さんに合っていたのだろう。こうしたステージは今でも続いていて、公演回数は1,000回を超えている。
ある時、赤ちゃん親子を対象にしたコンサート「ベイビーシアター」への出演を依頼される。本当に赤ちゃんに伝わるのかと半信半疑だったが、やってみて驚いた。歌う曲すべてに赤ちゃんはそれぞれ個性的な反応を示してくる。ストレートに反応する。音楽の持つ可能性を感じたという。
今までは自分が歌を通して子ども達と楽しく過ごし、子ども達が音楽を好きになってくれたら良いと思っていた。しかし、ベイビーシアターに出会ってからは、音楽や人間に対する考え方が大きく変わった。赤ちゃんは人を変える力を持っている。そのことに驚き、この事実を一人でも多くの人達に知ってもらいたいと思う。
今後は、この活動を広めていきたいし、町田市にベイビー専門の劇場を作るのが夢だと葉子さんは話してくれました。
(インタビュー・文/山本満)