インタビュー 長谷川正貴さん

株式会社無限アート

町田市在住

長谷川正貴さんは1959年生まれ。調布市で育つ。
地元の小学校、中学校では美術部に入り、高校では軽音楽部でギターを弾いていた。
靴を履かないで外出するような元気いっぱいの子どもだったが、美術や音楽を愛する少年でもあったようだ

小さな頃からサラリーマンではなく、起業独立を目指していた。
高校卒業後は、就職せずフリーターに。起業のチャンスを狙っていたのだろう。

高校を卒業して3年、21歳の時に府中駅前で兄の友人が経営する不動産屋さんの一角を借りてビデオレンタルの店を始める。
併せて中古ビデオの販売やカメラのレンタルもやったそうだ。近くにあった米軍基地の兵士に頼まれてビデオのダビングサービスも。また、少量だったが、中古車販売も手掛けている。
あれもこれもと手を広げていき、最盛期には月商が200万円を超えたという。とても忙しかったが、商売の面白さを知り、わくわくした毎日だった。

30歳の時、知人の紹介でブラックライトを使ったエアブラシアーティストに出会う。初めて見るブラックライトアートに驚愕する。この出会いが長谷川さんの人生を変えることになる。
このエアブラシアーティストと共に、数々の作品制作に携わる。
杏里のコンサート、プロレスの東京ドーム公演も手掛けた。当時全盛期を迎えていたディスコのマハラジャもやったそうだ。

ブラックライトがそれほど普及していない時代だったので、杏里のコンサートのクライマックスシーンでステージの背後にブラックライトで描いた巨大な地球が出現した時は、会場が騒然となったそうだ。その興奮が口コミで伝わり、制作の依頼が殺到した。

40歳の時、創業して間もないカラオケ館から仕事の依頼が舞い込む。店舗の差別化を図るため、全室をブラックライトで壁面装飾したいと。
当時は10店舗しかなかったカラオケ館は年々店舗を拡大していき、ブラックライトアートはそのカラオケ館の象徴のようなものになっていく。

カラオケ館の新規オープン前に、アーティストが一部屋、一部屋手書きでブラックライトを使って壁画を描いていく。2、3人のアーティストと共に、何日もホテルに泊まり込む仕事は過酷だった。カラオケ館の要求も高く、よく描き直しも求められたそうだ。

全国各地を転々としながら、最盛期では年間で800室を手掛けた。この事業で経営も安定したが、心身ともに消耗したという。
余談だが、カラオケ館はブラックライトアートを知らない人に説明するためのモデルルームの役割も果たしてくれたそうだ。
長谷川さんが50才の時にはアーティストの手書きからPC利用したプリント方式に変更している。

2017年にスヌーズレンの存在を知る。
スヌーズレンは1970年代にオランダで生まれた、心地よい感覚刺激空間を使って、知的障がい者に楽しみながら安らぎを得てもらう活動。
スヌーズレンはオランダ語のスヌーフレン「クンクンと匂いを嗅ぐこと」とドースレン「ウトウトと気持ちよく居眠りする」とを合成し創られた言葉。
知的障がいを持つ人々の発達やコミュニケーション能力を向上させる効果があるとされている。
ブラックライトで光るパネルやグッズを使って部屋全体を装飾した「ブラックライトルーム」を用いることが多い。

今年65才になった長谷川さん。
30年間余り、生業として生活を支えてくれたのがブラックライト。
ブラックライトルームを使ったスヌーズレンの普及に力を注ぎ、社会に恩返ししたいと考えている。