
町田市在住
生まれた場所は埼玉県草加市、母親の実家で生後10カ月まで過ごした後、父親の勤務地だった有明海に面する熊本県宇土町で幼年時代を過ごし、小学校一年の2学期に兵庫県西宮市に転居している。
小さな頃は引っ込み思案で体も弱く、目立たない少年だった。
中学では美術部に入ったが、馴染めずにすぐ退部。高校ではESSで英語を。
中学は酒造メーカーが設立した甲陽学院に進んでいる。
高校のESSでは近隣の私立高校合同スピーチコンテストで行った江戸川乱歩のザ・ブラック・キャットの朗読劇が印象に残っている。
上京し入学した東京大学で5月病ならぬ4月病に罹る。大学で何をやりたいかということが明確になかった。
父親が理系なので自分もなんとなくそれを選んだだけ。哲学的な本が好きで読んでいたし、思考は文系なのに間違って理系に入ってしまったわけだ。
教官が来て教室に入ってくるなり、黒板に向かって数式を書き始め、それをひたすら写す。半月ぐらいで試合放棄。寮が大学内にあったので大学には居たが、部活のワンゲルしかしていない。そのワンゲルも体力が付いていけず半年でギブアップ。
授業には出ない、部活もだめ。ちょっと好きになった女の子もいたけど、自分に自信持てず、引いてしまう。
辞める勇気もなくて大学に籍を置いたまま映画館に通う。
飯田橋にあったギンレイホールで500円3本立てを観に通う生活が続いた。
スウェーデンの監督イングマール・ベルイマンの映画やイギリスの監督キャロル・リードの「第三の男」を覚えている。
大学には行かずギンレイホールに1年通い、当然留年となる。
そんな時、大学の先生が主催した新入生歓迎映画会があった。
筋ジストロフィーの青年たちの日常を描いた「僕の中の夜と朝」。
国立療養所西多賀病院に入院している進行性筋萎縮症の子どもたちを描いたドキュメンタリー映画。
「療養所にいる青年たちが明日どうなるか分からない命の中で、自分は何のために生きているのだろうと自問するわけです。それが衝撃というより自分そのもの。何をしていいか分からない、生きていてもしょうがない。だから、近くに感じたんです。障がいがあるなしに関係なく。自分なんか贅沢な悩みなんだけど。」
映画を見に来ていた教育学部の2歳上の先輩から、ボランティアに誘われる。
それが川田さん人生の大きな転換点となる。
「大田区周辺で養護学校に通っている子どもたちを外に連れ出し、一緒になって紙飛行機を作って飛ばすみたいな活動に誘われたわけです。
一緒に活動するボランティアの人たちが多彩でした。大学生もいたが、看護学生もいたし、自分も障がいを持ちながら手に職つけて洋裁で身を立てている人とか。今までの自分の住む世界がいかに狭かったと痛感するわけです。そのグループは「雑草グループ」といいました。自分の出身大学を問われたら「雑草大学」ですと言いたいです。ここで多くの事を学びましたから。」
3年から医学部保健学科に進む。
そこで薬害スモンの新潟でのフィールドワークにも参加した。
一年生を2回やって5年で卒業。
雑草グループの活動を通して福祉の仕事にだんだん興味を持つようになっていったので
その方面に進もうと思ったが、理系なので受験もできない。
幾つもの福祉施設を受験したが、採用されず、就職浪人し、保健社会学の先生に紹介されて1年間公衆衛生院で勉強する。
その後、横浜市の福祉職に合格し、保健所に配属され、医療ソーシャルワーカーとなる。
医療ソーシャルワーカーは患者やその家族が抱える経済的な悩みや精神的な悩みなど生活全般に対処する福祉の専門職。
患者さんの家を訪問して、患者や家族と話をしたり、家の中の状況を見せてもらって、相談に乗ったり、福祉施策を紹介したりする。
配属早々に前任者が産休に入り、手探りで、無我夢中で年間250回も家庭訪問したそうだ。
8割が精神障がいを持った人たちで、その人達が家や病院に閉じ込められて、地域から排除される状況を知った。
病院と家に閉じ込められている患者のために、保健所の一角を利用してリクレーションをしたり、食事を作ったりする活動が当時始まっていた。患者が心を開いた瞬間を見て、やりがいを感じ、この活動にのめり込んでいった。
活動を始めて2年目ぐらいから、月1回の開催では物足りないと回数が徐々に増えたが、更に毎日通える場所を作ろうという動きが始まる。当事者が人と交わり心を開き、規則正しい生活をするようになるのが家族にもはっきり分かるので、地域作業所を作ろうという運動が家族会を中心に始まる。
地域作業所の立ち上げは近在では鎌倉市が一番早かった。横浜もそれに続けと運動が盛んになる。
川田さんも自ら手を挙げて、保健所のソーシャルワーカー代表として、この運動を推進する。
1982年に家族会が運営母体となって地域作業所「むくどりの家」が設立される。
役所の風土に馴染めないこともあり、川田さんも保健所を退職し、設立間もないこの地域作業所のスタッフとなる。川田さん29歳の時だ。2人目のお子さんが生まれる直前だったので、思い切った決断だったのだろう。
むくどりの家は借家を使った小さな施設。常勤スタッフは2人なので施設運営から経理、行事の企画・運営まで何でもやった。川田さんはスタッフとしてここに20年間勤務する。
2か所目の施設を作ったのを機に作業所の運営は家族会から「木々の会」に移行する。「木々の会」は立場に関係なく参加できる地域の団体で、川田さんは現在も理事長兼パートナー(ボランティアをそう呼んでいる)として関わっている。
その後、当事者が何時でも通えるフリースペース「たまり場」をカンパを集めて区内の関係者とともに作った。皆がボランティアで関わった。川田さんもむくどりの家のスタッフをしながら手伝った。
その施設が横浜市の各区に整備されつつあった精神障がい者生活支援センターに衣替えしたのを機にスタッフとなり、62歳まで勤務する。
長年、精神障がいを患った方たちを支援してきた川田さんにその心持を聞きました。
最後にそれを記したいと思います。
「心の病いを経験した人たちと関わらせていただく中で感じる魅力は、〝素〟の人間の魅力とでも言ったらいいでしょうか。
そして、彼らの心の動きを知るほどにそれは「合わせ鏡」みたいに、何かしらのかたちで自分の中にもある人間の心の深淵に繋がっているということ。それに知らないうちに夢中になっている。
私だけでなく、周りにもこのような感想を言う人が何人もいます。そんな不思議な引力があるのです。
もっと言えば、心の病を超えて、自分自身がホンネで付き合える人との関係を欲していたという事かもしれません。」
インタビュー、文 / 山本満
