インタビュー 佐藤健友さん


東京都品川区在住 探究横丁

佐藤さんは品川区の青物横丁で産湯をつかう。生まれも育ちも青物横丁。小中とも学校は地元。一人っ子で、引っ込み思案なおとなしい少年だったようだ。

小学校、中学校ともスポーツに縁は無かったが、スラムダンクにハマり、高校でバスケットボール部に。スラムダンクの影響で1年生だけでも20人を超え、体育館に入りきれず、階段を駆け上がったり降りたりという基礎体力作りに励む。多くの仲間が退部していく中、佐藤さんは辛抱強く続けたが、レギュラー三歩手前で終わる。

小さな頃から勉強は好きで、中学校ではいつもトップクラス。でも、優秀な生徒が集まる進学校に入学すると、成績は途端に落ちていった。普通の生徒になってしまった、埋没してしまったという小さな喪失感を味わったという。

3年生の頃には学校に行かず、一人自宅に籠り受験勉強に励み、成蹊大学工学部応用化学科に合格する。化学が好きだった訳ではなく、現役で入学できれば、どこでもよかった。文系の学生は華やかなキャンパスライフをおう歌しているのに、自分は薄暗い実験室で白衣を着て実験の繰り返し。地獄の学生時代だったと佐藤さんは当時を振り返っている。

そんな反動からか、仲間がメーカーや研究所に就職していく中、昔から好きだったアパレル業界に進む。華やかな場所に行きたかったのだろう。青葉台にあった東急スクエア、その次が船橋のららぽーと。店長やバイヤーも経験している。女性に囲まれた職場で接客力を鍛えられる。
 
小学校の教師になると決意し、3年間勤務した同社を退職する。中学生の時から憧れていたし、大学生の時も教師の道を考えたが、自分に自信が持てず断念している。学習塾のアルバイトをしながら玉川大学の通信学部に3年間通い、教員免許を取得する。そして、東京都の教員採用試験に合格し渋谷区にある笹塚小学校に赴任する。

いきなり2年生の学級担任となるが、これが大変で、学級崩壊寸前までいったそうだ。途中から少しずつ子供と接する感覚がつかめるようになる。特にシール作戦は大成功だった。生徒が何か1つ達成したら、連絡帳に1つシールを張って褒める。1年目の後半からクラスの運営に自信が持てるようになり、生き甲斐を感じるようになる。

教師になって5年目に東京都教育委員会が主催する教師道場に参加する。月1回集まって、順番に授業をし、その授業をみんなで評価・分析するということを繰り返していった。
「授業力」は飛躍的に向上した。ここで「主体的な学習」という考え方や手法を学んでいく。子供たちが教師に頼らず自ら学び、自分たちでルールを作ってクラスを運営するという生徒が主役の学習。これが佐藤さんの教師人生の転機となる。そして、現在の活動の原点にもなっている。

7年間勤務した笹塚小学校から江東区に新設された有明西学園に転勤する。小中一貫の先進的な教育を目指すモデル校として新設され、優秀な教師が都内各地から集められていた。
3年目からは理科専科となり問題解決型の授業を進めていく。「自分で疑問を設定し、自分で仮説を立て、実験で検証する」という学びのスタイル。生徒は自らドンドン学んでいった。進化していった。佐藤さんも驚いたそうだ。教師の役割は生徒の学びがスムーズに進むためのサポート。一方的に教える授業は皆無だったそうだ。

しかし、佐藤さんは4年間勤務した同校を退職し、自分一人で私塾「探究横丁」を立ち上げる。主体的な学習を実践する場だ。
そのきっかけを作ったのは一人の生徒の提案。クラゲを飼育したいと。飼育は校内ではハードルが高く、学校の外に活動の場を作る必要があった。「そうだ、学校を飛び出そう」と思ったそうだ。
また、教師の力量の著しい低下という問題を解決したいと思っていた。子供を怒鳴りつける、黒板に板書して終わり。そんなやり方が今でもまかり通る我が国の教育現場への危機感は強かった。学校に居ては解決できないと思った。

「探究横丁」には前の学校の教え子たちも通ってくる。水族館を創りたい子、ゲーム制作をしたい子、作曲をしたい子、漫画家志望の子といろいろだ。自分の好きなことを徹底して追求する子供達を見守り、サポートする。そして、子供達の夢が一つ一つ実現していく。
こうした活動と子ども達の夢の実現を伝えることができれば日本中に響くと思う。日本の教育を、社会を変えられると信じている。

―インタビューを終えてー
少し遠回りしたが教師という天職を見つけた佐藤さん。だから強い使命感があるのだろう。
私は教育の分野は素人だが、その手法や考え方は普遍的で真っ当なことだと思う。小さな活動から始めるわけだが、これをどう発展させていくかとても楽しみだ。頑張って欲しい。

(インタビュー・文 山本満)