インタビュー 福富英里子さん

狂言普及活動家
町田市在住
福富英里子さんは1972年小平市に生まれ、6歳の時に転居し千葉県浦安市で育つ。
幼いころは母親の後ろに隠れるような引っ込み思案な子どもだったが、小学校の時に担任の先生に勧められ鼓笛隊に入り、スネアドラムをやり始めた頃から活発な女の子に。
中学校の吹奏楽部では打楽器の枠がなくテナーサックスを始める。
市川市にある県立国府台高校に進学。中学校から始めた吹奏楽に夢中になり、吹奏楽一色の生活になったようだ。「生活のすべてが音楽で満たされた高校時代でした」と、福富さんは当時を懐かしく振り返る。
国府台高校の吹奏楽部は本格的で、年1回のスプリングコンサートではオーケストラが演奏するような楽曲、例えばムソルグスキーの「展覧会の絵」にOB・OGも参加した大編成で挑戦したこともあった。苦しい練習を共にした仲間とは今でも交流がある。
八王子にあった共立女子大学に進学する。ここで、和泉流狂言師の野村萬斎(当時は武司)さんが指導していた狂言研究会に入部し、狂言の稽古を始める。
狂言との最初の出会いは小学6年生の時。国語の授業で「狂言」のセリフを音の悪いラジカセで聞き、何を言っているのかサッパリ分からず、第一印象は最悪だった。
時が過ぎて、高校3年生の時に開かれた学校主催の芸術鑑賞会で狂言が演じられた。野村家の狂言師たちが演じた狂言は圧倒的だった。会場中に響き渡る凛とした声、美しい所作、すべてが完璧にコントロールされている様を見て心と体が震えた。小学6年生の時に受けた印象との落差はとてつもなく大きかった。本物の芸を観たということだろう。
観劇しながら居眠りしたり、お喋りしている友人たちの中で、自分ひとりだけが椅子から転げ落ちるほどの衝撃を受け、演者の一挙手一投足を見つめていた。
偶然にも、入学した共立女子大学に野村萬斎さんが指導する狂言研究会があった訳で、迷うことなく即日入部し、4年間みっちり野村萬斎さんに稽古をつけてもらう。
大学を卒業して、楽器店勤務を経たのち、請われて野村万作、萬斎親子の活動をマネージメントする「万作の会」に事務方として就職し、結婚で退職するまでの約8年間勤務する。
一門の狂言公演の運営をはじめ、狂言に留まらず幅広く活動していた野村萬斎さんの仕事も担当していたので、多忙を極めたそうだ。そんなこともあり、社会人になっても続けていた狂言の稽古はこの頃中断している。
子育てに専念していた2012年に、2人の娘が通っていた幼稚園で園長先生に請われ、子ども達に狂言の面白さを伝えることになる。子ども達の喜びようは想像を遙かに超えるものだった。体いっぱいに喜びを表現する子ども達を見て、高校3年の芸術鑑賞会で受けた衝撃がよみがえる。狂言の魅力をもっと多くの人たち伝えたいと強く思った。
休止していた狂言の稽古を再開しようと、野村萬斎さんの父親である野村万作さんに稽古をつけてもらうことになる。あれから12年、今も稽古は続けている。
町田市内の幼稚園や小学校から始まった狂言の体験授業は、立川市、稲城市、調布市、江東区の小学校などにも広がっている。当面の目標は町田市の全ての小学校を巡ることだ。
狂言師になることを夢見たが、女性はプロの舞台に立てないというのがこの世界の掟。この事実に悶え苦しんだ時期もあったが、自身の体を目一杯使って、狂言の魅力を伝えている今の自分に喜びを感じている。
時代が変わりつつある今、福富さんに益々活躍の場が与えられることを願っている。
(インタビュー・文 山本満)
