インタビュー 藤田将友さん
藤田将友さんは1976年、大田区大森生まれ。横浜市の上大岡で育った。
父親は静岡から上京し、乾物問屋で身を起こし、その後不動産業に転じ、地元で手広く店を構えていた。
中学校では帰宅部に限りなく近い卓球部に所属する。
自由な校風に憧れて神奈川県立港南台高校に進学。体も大きかったし、幼馴染に誘われたこともあって、ラグビー部に入部する。文武両道の校風だったので、勉強もやったが、ラグビーにどっぷり浸かる。仲間との絆は強く、今も当時の仲間と酒を吞みかわす。
指定校推薦の第5希望だった青山学院大学法学部に進む。幼い頃から父親の自由な仕事ぶりを見ていて、組織に属さない自由な生き方がしたいと思うようになっていた。
だから、不動産業で起業し、それと同時に司法書士の仕事もしようと考え法学部を選んだそうだ。
大学時代は司法書士を目指し、サークルにも入らず、勉強一筋で専門学校にも通っている。
大学1年の時、宅建に一発合格。自信を得て、学生時代に司法書士試験を突破しようと1年留年し、試験に挑んだが、叶わなかった。
大学5年生の時は試験勉強もしたが、アルバイトと海外旅行に多くの時間を費やす。
アルバイトは海外引越の仕事。海外に赴任する商社マンや帰国する外国人がお客様。横浜の山下ふ頭や成田空港によく通った。
この仕事を通じて海外をこの目で見たいとの想いが募り、バックパッカーとしてアジアや中近東を巡る。チベットやネパールにも足を運んだそうだ。司法書士は半ば諦めていたのだろう。
海外に繋がる仕事を求めて住友倉庫に入社する。東京港に着岸したコンテナ船から巨大なガントリークレーンを使ってコンテナを荷下ろしする仕事。そのプランニングと監督が藤田さんの仕事だった。この男臭い仕事は団体競技のラグビーに似ていて、とても面白かったそうだ。
会社という組織の中で働き、多くの出会いと貴重な経験を積む。
そして、初志を貫徹すべく、不動産業で起業するために、6年間勤務した住友倉庫を退職する。
大手不動産会社で1年半経験を積み、2006年にラグビー仲間と二人で会社を立ち上げる。
安定した大企業を辞めて起業することに父親は強く反対し、勘当されたそうだ。
会社経営の苦しさや不動産屋に向けられる偏見のようなものを肌身で感じていた父親は息子に同じ道を歩ませたくなかったのだろう。
藤田さん達が立ち上げた株式会社Rバンクは戸建てやマンションのリノベーションを手がける会社としてスタートする。
少しずつ業容を拡大し、事業用不動産の一棟リノベーションやシェアハウス、コミュニティー賃貸の分野に進出する。最盛期には60棟のシェアハウスを運営している。わが国におけるシェアハウスの先駆者といえるだろう。
また、不動産売買仲介時に第三者が建物を診断するインスペクションを我が国で最初に取り入れた会社でもある。
Rバンクが始めたインスペクションは大きな反響を呼び、NHKや日本経済新聞でも取上げられた。不動産業のイメージを向上させたことを父親はとても喜んでくれて、勘当は解かれたそうだ。
しかし、事業が安定すると、会社の空気は緩み、役員達もバラバラに。藤田さんは13年続いた会社を京急電鉄に譲渡する。
知人に紹介された不動産会社を経て、2020年に1人で株式会社Denを創業する。藤田さん44歳の時だ。
Rバンクではシェアやコミュニティーといった住まいの新しい形を提案してきた藤田さん。今度はそれを発展させて、まちづくりを強く意識した資産コンサルティングの道を歩もうとしている。特に、魅力が失われ、求心力が低下しつつある「まちなか」を再生させることに力を注いでいる。
建物の寿命は長く、街に与える影響は大きい。
街の特性を良く知り、街を良くしようとする不動産オーナーが魅力的で価値ある建物を生み出していくことで街全体の価値が高まり、それが自身の資産を守ることに繋がる。
特に郊外エリアの不動産オーナー達の意識を変え、そんな好循環を産み出したいと考えている。
「Denの取組みが街の小さな不動産屋さんに伝播し、束になって街を変えていく原動力になればいいと思う。それが不動産業界の地位向上につながると思う」。
藤田さんは、最後にそんな想いを話してくれました。
(インタビュー/文 山本満)