インタビュー 水津祐輔さん

水津祐輔 / 日本酒

川崎市在住
日本酒ラボ店主
町田市森野1丁目34−13 TM3ビル 203

水津祐輔さんは1985年川崎市多摩区西生田に生まれる。小学校は地元の小学校に通い、中学校、高校は近在にあった私立の一貫校に。
小さな時から生き物が好きで、両親に買ってもらった魚類の図鑑をボロボロになるまで読んでいたそうだ。今もその図鑑は手元にあるが、全てのぺージがばらばらに外れているそうだ。
中学校も高校も生物部で活動し、部長も務めている。本人曰く、運動はからっきしだめだったそうだ。高校時代はゲームに没入し、麻雀もやる少し早熟な高校生。この頃にチョッピリお酒も覚えている。最初に飲んだ「八海山」は水津さんの日本酒人生の始まりとなる。
ゲーム、麻雀と遊びを覚えたせいか、学業は思わしくなく、推薦で何とか大学に入学しようと大量のレポートを提出して、学部が新設され応募者が殺到した帝京科学大学アニマルサイエンス学部に入学する。大学ではクジラ研究で高名な教授のゼミに入ったものの、バンドとお酒に夢中になる。ロックバンドを組んで夜な夜な町田のライブハウスに出没。幼少期にピアノを習っていたので、何となくギターがやりたくなったのがバンドを初めた理由だ。お酒もたらふく飲んでいたようだ。もちろん、日本酒を。
大学を卒業し飲食店などのアルバイトをしながら1年。その後、東芝の工場で契約社員として1年半働く。

日本酒の事をもっと知りたくて十日市場にあった老舗の酒屋「坂口屋」に就職する。ちょうど坂口屋がお酒のインターネット販売を始めようとしていて、水津さんはシステムの立ち上げから関わっている。日本酒の仕入れも任され全国の酒蔵も数多く回ったそうだ。ここで7年間経験を積む。

坂口屋に勤務しながら、漠然と起業することを考えていた。そんな時、都心に日本酒飲み放題の居酒屋が誕生する。これだと思ったそうだ。この情報を知って、1ケ月で坂口屋を退職し、開店の準備を始めている。起業するなら20代と考えていたのでぎりぎりの29歳の時だった。絶対成功すると変な自信があったらしい。

場所はバンドや酒で慣れ親しんだ町田と決める。日本酒飲み放題というスタイルのお店は必ず後続が現れる。特に都心には競合が現れる可能性が高い。今の内に郊外の町田で先行すればダントツの存在になれるという読みもあったようだ。
「午後5時~11時まで3,300円飲み放題、つまみ持込OK」というスタイルでスタートさせる。これが現在の日本酒ラボの原型。オープンしたのは2015年10月6日。

読みは当り、開店早々からお客さんが押し寄せてきた。町田経済新聞で取り上げられ、それがマスコミで取り上げられ反響を呼んだ数名だったブログの閲覧が一機に6,000人に。予約が取れない店になる。

開店して3年間はこの盛況が続くが、徐々に客足が鈍くなる。そこで、一杯売りやお魚を中心としたお料理を出すことに。幼い頃から魚には慣れているので、魚選びや鮮度の見分けには自信があった。こうした工夫を繰り返しながら今は多くの常連に支持されて連日賑わっている。

水津さん、お客様は当然だが、酒蔵を大切にしていきたいと常々思っている。昔は杜氏の経験と勘に頼っていた酒づくりも、科学的な分析をベースにした酒づくりに取り組む酒蔵が全国各地で上質で美味い日本酒を創り出している。そうした酒蔵が創り出す日本酒を多くのお客さんに飲んで欲しい。

精米歩合を極限まで下げて高価な酒を造ろうとする流れから、敢えて磨かず美味い酒を作ろうとする酒蔵も現れ始めている。その代表格は群馬県にある土田酒造。日本酒の世界、技術も思想も大きく変わろうとしているのだろう。

また、水津さん、「オシャレで高価な日本酒」というトレンドが好きではない。今はワイングラスで提供され、1合数千円という日本酒もある。日本酒は庶民のもの。手頃で何時でも飲めるお酒であって欲しい。日本酒ラボはそれを体現し続けていきたいと思っている。

最後に水津さんに人生の節目で出会った記憶に残るお酒を紹介してもらいました。
一つ、日本酒との最初の出会い「八海山」(新潟県)
二つ、日本酒の奥深さを教えてくれた酒屋で出会った「黒龍」(福井県)
三つ、日本酒ラボが開店した時に出会った「恵那山」(岐阜県)


(インタビュー・文 山本満)