インタビュー 秋田史津香さん

秋田史津香

町田市玉川学園在住

秋田史津香さんは愛知県知立市(チリュウ)生まれ。知立市は愛知県の中部に位置する内陸の街。
秋田さんは運動が苦手なおとなしい少女。でも、母親の勧めもあり中学校ではバレーボール部に入部している。本が好きな少女だったが、文学少女というほど本に没頭したわけではないそうだ。

高校は祖母の家に近いという理由で名古屋市内にあった県立中村高校に進む。コツコツ勉強し早稲田大学第一文学部に進学する。福祉の現場で働いていた母親からは県立大学看護学部への進学を勧められるが、教師から「看護の仕事は秋田さんには向いていない」と言われ進路を変えている。自分で進む道を切り開くというタイプではなく、身近な人の助言に素直に従う生徒だったようだ。

大学では西洋史学を専攻し、「ローマ帝国の歴史」を勉強する。内気な性格は変わらず、勉強もバイトもそこそこの、ごく普通の大学生活を送る。しかし、3年生の時に恋に落ち、4年生で学生結婚する。内気で奥手の秋田さん、初めての燃えるような恋をしたのでしょう。

夫は頻繁に転勤する仕事だったので最初の住まいは福岡県の久留米市、次が春日市、大分県玖珠市と転々とする生活が続いた。夫が東京勤務になったのを機に町田に引っ越している。秋田さん26歳の時だ。子どもには恵まれ24歳で長女、26歳で次女が生まれている。

長女が保育園の年長となる頃、27歳で初めて就職活動を経験するが、ことごとく断られる。仕事経験の無い27歳の女性が置かれた立場が身に染みたという。三か月限定の仕事で何とか採用してくれる会社に滑り込む。それが前田建設の関連会社だった株式会社JM。職場はとても楽しかった。同僚、上司、顧客との触れ合いは、夫と子どもしか接点が無かった秋田さんにとって、育児に追われ体はきつかったが、新鮮で毎日が楽しかったそうだ。この会社で一心に働き、アルバイト、契約社員、そして正社員となっていく。

入社7年目に夫が体調を崩し、リモートワークで仕事が続けられないか打診するが前例がないと断られる。しかし、退職して業務委託であればということになる。一人で始めたが、隣の奥さん、その隣の奥さんと声を掛けていって、最盛期には自宅があった玉川学園周辺に住む主婦50人に働いてもらった。秋田さんがリモートワークを始めた2015年当時、リモートワークは珍しく、周辺にはキャリアを持つ女性達が子育てのために専業主婦となっていた。そうした人達に働く場を作る先進的な取組みだった。 

仕事が忙しくてPTA活動も逃げ回っていたが、とうとう順番が回ってきて校外委員を引き受ける。これが案外楽しく父兄達との交流は世界を広げてくれた。また、南大谷あんしん相談室で開かれた街の忘年会にも誘われ、会場を埋め尽くした100人の人達と楽しい時間を過ごしたそうだ。2018年にはあんなに避けていたPTAの会長に自ら進んで名乗りをあげている。秋田さん、一度スイッチが入ると突き進んでいくタイプらしい。仕事も地域の活動も。

秋田さんは2022年2月の町田市市議会選挙に立候補する。政治の世界に飛び込んだ理由は2つある。
一つは「コロナ禍でのワクチン接種」
町田市でもワクチン接種が始まると高齢者から予約が取れないと悲鳴があがる。予約は電話とWEB。電話に予約が殺到し繋がらない。高齢者はWEBが苦手なので電話に頼るがいっこうに繋がらない。不安で堪らない高齢者達。それを目の前にして秋田さん達は立ち上がる。市民ホールの会議室を手配して、私設のワクチン予約サポートセンターを作る。5人のボランティアが自前のPCを持ち込み、訪れた高齢者のWEB予約を手伝う。開設初日には200名の人が訪れたそうだ。5日間で約600人が訪れた。
会場には休暇をとって手伝いに駆け付けた町田市の職員もいたそうだ。一人一人の職員はその必要性は分かっているのに。市民に寄り添えない硬直した行政の仕組みに強いいきどおりを覚えた。
市民目線に立って柔軟に素早く動く行政であるべきだと。

二つ目は「子どもが通う小学校で6年生の女子児童が自ら命を絶った悲しい出来事」
事件が起こった当時、PTA会長だった秋田さんは不安で一杯の保護者の声を代弁し、事実を明らかにするように学校にも教育委員会にも訴えたし、市長への手紙も出した。地元の市議会議員にも訴えたという。しかし、誰も、真剣に耳を傾けようとしなかった。町田市、町田市教育委員会のプライバシーを盾にした頑なな対応は変わらず、絶望したという。
自己保身ではなく市民に正直な行政であるべきだと。

町田市の行政を巡る二つの事件が秋田さんを政治の世界に向かわせた。そして、今、市議会議員としての活動が始まろうとしている。
(インタビュー・文/山本満)