高橋由紀子さんは世田谷区経堂で3人姉妹の長女として育つ。
家は昆布、かつお節、味噌、醤油などを扱う昭和の町の乾物屋さん。
小中学校は地元。高校は日本女子大学附属高校、そして、同大学の英文学科に進む。
中学ではバレーボール部、高校では英語クラブ。
幼い頃から言葉が気になる子だった。また、「そもそもは?」と物事の本質を問い続ける「そもそも少女」だった。それは今も変わらない。
高校時代は母親との葛藤を抱えながらも身勝手な生活をおう歌していたらしく、本人曰く、「渋谷や六本木で遊んでいた」。
母親は心配性で躾に厳しい人だった。世間体を気にして当時流行していたTシャツを着ることも禁じたぐらいに。
そんな実家を一日でも早く脱出したくて、大学4年の1年間は、目白にあった出版社が企画した電話で人生相談を聴く相談相手のアルバイトをしていた。面白い相談内容を紙面に載せるための原稿も書いていた。
その収入で、港区・四の橋にあった小さなアパートの一室を契約し、実家から少しずつ本を運び出し、一人暮らしを始めた。
1976年に大学を卒業、英文科の最優秀論文賞に選ばれる。賞金5,000円は飲んで一晩で消えたらしい。
卒業後は通訳や翻訳を手掛ける会社に入社し、忙しい日々を送る。
そんな中、街で面白いお店に出会う。麻布十番にあった「BLUE&WHITE」。
勤務中のとある日、自転車で通りがかったその店の店頭の飾られた刺し子の品に惹かれそのまま入店し、気づいたら留守番の人に「働きたい」と申し出ていた。
その日の内に採用が決まる。
米国人女性Amy Katohが経営する藍染めや染付を使って様々な商品を企画・デザインから販売までを手掛けるお店。外国人が日本の藍染めのすばらしさに惚れ込み、それを商品化して販売するという、珍しいお店だった。
高橋さんの仕事は多岐にわたった。Amyさんから様々な、そして突飛な指示が矢継ぎ早に出される。
「茶箱を全て浴衣地で張り替え衣装ケースにしたい」「手帳やメモ帳に手拭い地でカバーをつけたい」「浴衣地を使った洋服をデザインしてファッションショーを開きたい」「伝統的に36c mと決まっている浴衣地の幅を、カーテンやベッドカバーの縫製に便利なように90cm幅に作れるか問屋に交渉して欲しい」とか。
そうした指示を問屋さんや仕立て屋さんと協力して目に見える形にすることが仕事だった。それ以外にも在庫管理や金銭帳簿を整える、グラフィック・デザインや売り子もする、仕入れもする、店のディスプレーもと全て任せてもらった。
代官山の手拭いだけの店「かまわぬ」の開店にも関わった。
未経験の仕事ばかりだったが、すべてが面白く、よく働いた。米国人女性のAmyさんから日本文化の素晴らしさを教えられた。
「BLUE&WHITE」に勤務して1年目ぐらいで結婚し、長女、次女を出産している。
7年間勤めたこの店を退職し、1985年に私塾「こころへ舎」を開講する。
ある日、知人から「息子が高校受験を控えているが、英語ができなくて困っている、助けてほしい」と相談され、最初は「教職も持っていないのに?」と断ったが、毎週2回の自宅でのレッスンを引き受ける。途中から同級生2人も加わる。
彼らは学んでいるうちに英語の理解が進み、帰っていく時は来室した2時間前とは違う、晴れやかな表情をしていた。
「自宅で教室を開業するのもいいかもしれない。あんなに元気に帰っていくのだもの。」と思うようになる。
この15歳男子3人は私塾「こころへ舎」の最初の生徒であり、開講を決意させた恩人である。
また、乾物屋を切り盛りしていた両親の姿を思い起こしていた。独立独歩で懸命に働く両親への憧れみたいなものも高橋さんを後押しした。
そして40年の間に、日本語、英語、フランス語の語学クラス、書道のクラス、哲学のクラス、人権・憲法のクラスと広げ、現在に至っている。
「そもそも少女」は72になった今も、教室で「そもそもから物事を考える習慣を!」と説いている。
これからの40年は、「まずはあなたの心の中の執着(争う心)を解き放て」と説く釈迦の哲学を含んだ「いろはうた」を国内外の多くの人々に広める企画を中心に、と活動している。
日々戦禍の広がる時代にあって、1000年前から受け継がれるこの歌が、戦いや争いを未然に防ぐ一助となると高橋さんは確信している。
(インタビュー・文/山本満)
ーインタビューを終えてー
私山本は高橋さんの書道クラスの生徒。よちよちしながら、習っています。
「よちよち」という表現がピッタリするぐらい、拙く、下手くそですが、懸命にやっています。
70の手習い、実に楽しい。


